礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.09.10

山の上で主の前に

Ⅰ列王19:1-21

預言者エリヤは、カルメル山でバアルの預言者と対決し、圧倒的勝利を収めた。彼は、主への混じり気のない信頼をもって、人を恐れずただ神をのみ畏れ、人に妥協せずただ神にのみ従った神の人だった。

ところが本章では全く別人のようだ。アハブ敗北の報に激怒したイゼベルは、エリヤ殺害を本人に通達した(2節)。恐怖のどん底にたたき落された彼は、ベエル・シェバに逃れ、えにしだの木の下に座して、ただ自分の死を祈り求めた。彼は不信仰になっていた。火をもって応え給うた神に目を留めず、凶暴な王妃の刃(やいば)を恐れた。エリヤほどの信仰の人が…と思うが、これは我らへの警告だ。

神から離れれば、いかなる人も力を失うことを教えられる。人は弱いものだ。力と勇気はただ信仰による。また、華々しい勝利の後に危険があることを教えられる。神の栄光が現されれば、悪魔は黙っていない。祝福の後に堕落する危険がある。成功したエリヤの心に隙があった。サタンはそこを見逃さなかった。

失意のどん底にあるエリヤを、神はねんごろに取り扱われた。二度にわたって焼け石のパン菓子と壺(つぼ)の水で養われた。しかし魂が取り扱われなければならなかった。彼は神の山ホレブヘ導かれた。かつて神がモーセに燃える柴の中から語られた神の山(出3:14)、またモーセに顔と顔とを合わせて語られた臨在の神の山だ(出33:11a)。しかしエリヤはほら穴に入った。彼はまだ主の前に出ていない。神の臨在の場に来ても、まだ逃避の姿から抜けられない。

自分で出て来ない彼を、神自らが引きずり出された。神は彼に、ここで何をしているのかと語られた(9節)。かつてエデンの園で神が罪を犯したアダムに語りかけられた言葉(創3:9)に似ている。彼はこの言葉の前に己の魂が探られたが、まだ彼の応答は自己弁護であり、現状への不満であり、神への不平だ(10節)。彼は不信仰を認めようとしない。さらに自分でも気がつかない自己憐憫(れんびん)があった。エデンの園でアダムがエバのせい、果ては神のせいにしたことに通じる(創3:12)。

彼は慰めの言葉をかけてほしかったが、主は彼に、山の上で主の前に立てと言われた。状況を見るのでも、己の義を立てるのでもない。裸で主の前に出よと言われるのだ。彼は、目を見張るしるしを通して慰め、励ましてくれるかと期待して出たが、強風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかった。目に見える現象には主は現れ給わなかった。

その後、かすかな細い声があった。再び主は「汝ここにて何を為すや」と語られた。彼はここでも自己主張をやめない。やはり自己正当化と自己憐憫の中にいた。主はそんな彼に、自分の道に帰れと言われた(15節)。ハザエルに油を注いでアラムの王に、エフーに油を注いでイスラエルの王に、エリシャに油を注いで後継者にせよと言われた。過去の自分の熱心さにしがみつき、不満を神にぶつけ、自らの不遇を憐れむより、なすべき事を最後まで忠実になせと、主は言われるのだ。

さらに神は、バアルに膝をかがめない七千人を残すと言われた(18節)。主は、自分ひとりだけ残ったという彼の傲慢を砕かれた。神が真の預言者たちを備えられるのだ。エリヤは立ち直り、自分の道を帰って行った。主の前に出たから、そして静かな細き御声を聞いたから、彼は信仰の回復を得たのだ。

我らのいる所はいつも主の前だ(詩46:10)。神は静かな細き御声をもって語られる。かすかな細い声を聞き取る者になりたい。そのために、我らも山の上で主の前に立とう。