かつ来りて我に従え
ルカ18:18-30
ここに登場する人物は、明らかに恵みを求めてイエスのもとに来た。彼は役人であり、青年であり(マタ19章)、また裕福な人で(23節)、自分から永遠のいのちを求めてきた。地位、若さ、富など、人が欲しいと思うものが全部そろっており、何不足ない境遇にいたが、満足がなかった。それは、永遠のいのちを自分のものとしていなかったからだ。
永遠のいのちは、ユダヤ人たちが求めてやまないもので、これを得るために律法を守ってきたと言ってよい。だからイエスは「戒めはあなたもよく知っているはずです」(20節)と言われたのだ。戒め・律法とは、イスラエルの民が神を信じ幸せを得るために、永遠のいのちを得られるようにと、神が彼らに与えられた掟(おきて)だ。
イエスの言葉に対して彼は、幼少から守ってきたと胸を張って答えた(21節)。彼は何不足ない境遇だっただけでなく、道徳的にも立派だったのだ。世間的に立派な人、偉い人と評判されていた。しかし、どれほど努力しても誉められても、永遠のいのちがなかったのだ。
イエスは慈しみの目で彼を見つめられた(マル10:21)。そして「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります…」と言われた。家庭や才能に恵まれ、エリートコースを歩んできた彼は、誰からもそのように言われたことはなかったが、主がはっきりと指摘された。
主は、持ち物を売り払って、貧しい者に与えよと言われた。この言葉に彼は鋭く刺された。自分でも気が付かなかった心の奥底を見透かされたのだ。しかし、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った(マル10:22)。従えなかったのだ。資産に強い執着・愛情を持っていたからだ。
イエスが言わんとされたのは、慈善事業の勧めでも、善い行いをすれば永遠のいのちが得られるとの安易な約束でもない。心が何に向いているか、何を第一としているかを指摘されたのだ。「『姦淫してはならない。殺してはならない…』」は、結局「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」(マタ19:19)になる。彼は役人だから、律法に精通していたはずだ。実際、小さい時から律法を遵守(じゅんしゅ)してきたのだ。
彼にかけていたものは、律法の根底に流れる愛を知ることだった。「隣人を愛せよ」とあることは知っているが、自分のうちには金銀への愛だけで、人を愛する愛など皆無だというところに光が当たって、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのだ。形の上では律法を遵守してきたが、律法が真に求めている愛が欠落していたのだ。
イエスは最後に「そのうえで、わたしについて来なさい」(22節)と言われた。結論はこれだ。真の愛に開かれるためには、イエスに従うことだ。なぜなら、イエスは神の真の愛を具現された方だからだ。
キリストは神であられた(ヨハ1:1)が、神のもとから我らと同じ人となって我らの所に遣われた(ヨハ1:14a)。それは我らを罪から救うためだ。罪とは、天地創造のまことの神を知らないことであり、罪を持ったままでは滅びだ(ロマ6:23a)。この罪と滅びから我らを救うために、キリストは遣われて来られた。
キリストは十字架にかかられた。それは我らの罪のための身代わりの死だった。罪人の我らがかかるべき十字架にキリストがかかられた。我らに求められているのは、罪を認め、神の前に悔い改め、十字架を信じることだ。そうするなら罪が赦され、滅びから免れさせられる。永遠のいのち、罪からの救いは我らにもぜひ必要だ。これを得るために求められていることはイエスに従うこと、イエスを信じることだ。
永遠のいのちとは、さらには一切の汚れからの聖潔(きよめ)だ。古き人を十字架につけ、信仰によってイエスを内に住まわせ、全く神の所有となることだ。求められていることは御言葉に従うことだ。
イエスは「汝なお一つを欠く」(マル10:21文)と言われる。あれもこれもではない。ただ一つ、イエスに従うことだ。従って恵みを得、恵みを得たら、さらに従う。我らの歩みは、ただイエスに従うのみだ。そこにこそ真の自由があるのだ(ヨハ8:32)。従うことはできないと言ってはならない。こちらに願いがあれば、主が従う者にならせ給う(27節)。