我らにイエスあり
ヘブル4:14-5:10
本書のテーマは“大祭司イエス・キリスト”だ。著者は、イエスがモーセにもアロンにも勝る大祭司、最高の大祭司だと述べる。なぜイエスが最高の大祭司か。
1.もろもろの天を通られたから(4:14)
イエスは永遠の初めから神であられたが(ヨハ1:1)、一時的に肉体をとってこの世に来られた。イエスは十字架で死なれ、復活され、昇天され、神の右の座につかれた。十字架のどん底から天上の玉座につかれたのだ。
その主が我らのために神の前に出てい給う。十字架で贖いを全うされた主が、我らが救いを受け入れるように、贖われた者として歩めるように、神の前で祈り給う。復活して一切の権威を授けられた主が、我らのために執り成し給う。
2.我らの弱さに同情できるから(4:15)。
イエスは人となられたからこそ、我らの弱さを知られた。主の最大の苦しみは十字架だった。捨てられるはずのない神の子が、父からも捨てられ給うた。その苦しみのほどは、イエスが父なる神といかに親密な関係にあったか知らなければ、とうてい理解できまい(ヨハ5:19,8:29,マタ3:⒖)。そのイエスが神から捨てられ給うた。それは、捨てられるべき罪人の我らが捨てられず、赦され義とされ、神の子にされるためだ。
神からの断絶ほどのどん底はない。そのどん底を味わわれた主は、我らの弱さに同情し給う。我らは、悲しみ、痛み、悩み、苦しみの中に置かれやすい。そんな我らを、主は知り、憐れみ給う。
3.メルキゼデクの位に等しい大祭司だから(5:10)
アブラハムの時代、シャレムの王メルキゼデクは、いと高き神の祭司だったが、戦いに勝って凱旋するアブラハムをパンとふどう酒で迎えた(創14:18)。彼はキリストの型だ。主は、最後の晩餐で我らのために流す契約の血を示された(マタ26:28)。それは十字架の血を暗示する。この血によって我らは贖われた。
主はご自身の血潮によって、我らにとこしえの救い、全き贖いを与え給う方だ(5:8,9)。聖くなりたいとは、救われた者の魂の叫びだ(マタ8:2)。我らを聖くするのは、傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血であり(Ⅰペテ1:19)、その血に対する我らの信仰だ。信仰によって古き人を十字架に付け、信仰によってキリストの内住をいただくことができる。
主に来ていただいたら、我らは従順な者になる。主は十字架の苦難によって従順を学ばれた。意志を働かせて御言葉に従うことによって学びとるものだ。イエスは徹底的に御心に従うことによって、とくに十字架の死に至るまで従うことによって、従順を学ばれた。それは、我らをも従順な者にするためだ。
キリスト内住の恵みをいただいて、どこでも、何でも、ただ御心にのみ従う者になりたい。キリストこそ、我らをそのようにし給う、とこしえの救いを与える方だ。
我らにはこういう大祭司が与えられている。我らにイエスあり! 主のもとにこそ「おりにかなった助け」(4:16)、癒し、慰め、励ましがある。この主を仰ぎ、はばからず恵みの御座へ出て行こう。