神の子どもと呼ばれるために
1ヨハネ3:1-12
神が我らのために備えておられる恵みは、まず罪の赦しだ。我らは、神の恵みにより、キリストの十字架によって、価なしに罪が赦された。さらに別の方面から、神の子どもとされた恵みがどれほどかをヨハネは語る。
神は我らを、御子を十字架にかけるほど愛してくださった。この愛の大きさがわかるのは、かつて自分がどういう者だったかを知った者だ(エペ2:1-3)。我らは神の子どもどころか、生まれながらみ怒りを受けねばならない滅びの子どもだった。
しかし、神は豊かな憐れみと大いなる愛を我らに注ぎ(エペ2:4)、御子を惜しみなく与えられた(ヨハ3:16、1ヨハ4:10)。そのためにどれほどの犠牲が払われたことか。信任した我が子を十字架にかけねばならない御父の断腸の思いがあった。御子が、絶対的に信頼された父から捨てられねばならない苦しみがあった。しかし、我らへの愛のゆえに、すべてを耐えられた。
神は我らに、神の子どもとされる特権を与えられた(ヨハ1:12)。悔い改めと信仰によって、キリストの十字架の血の功のゆえに、赦罪と義認を与えられたのだ。
神の子どもたる特権が与えられ、御国を継ぐ資格が与えられた我らは、これから先どうなるのか、まだ明らかではない。しかし、キリストに似た者となるということは明らかだ(2節b)。主は再臨し給う。そのとき我らは、そのまことの御姿をこの目で見る。その日は近い。主は来て、神の子どもを呼び集め、キリストの花嫁として御国に迎え給う。これが神の子どもの将来だ。何と素晴らしい前途か。
ただし、条件がある。自らをきよくして備えていることだ(3節)。花嫁は純潔を守る。花婿のために身をきよく保ちたいと願う。聖(きよ)潔(め)を求めるのは、主を愛しているからだ。我を愛して、我ために己が身を捨て給いし神の子イエスを愛するがゆえに、聖潔を求めるのだ。真の神の子どもとは、救いの恵みのみならず、聖潔の恵みまでいただいて、主にお会いしたいと切望しつつ、備えている者のことだ。
せっかく与えられた特権を無駄にしてはならない。莫大な愛が注がれ、犠牲が払われて与えられた神の子どもたる特権を、低く値積ってはならない。恵みを確実に自分のものにし、神の大いなる愛に応える者になりたい。
神から生まれた者(4-12節)とは、神の子どもよりも深い。罪を犯す者は神に反逆する者だ(4節)。神に対する罪であり、救われた後の罪、性質としての罪だ。過去の罪から救われたのに、また罪を犯す自分、妬み深く、傲慢でわがままで、冷淡な自分の姿がわかるか。わかったら主のもとに持っていくしかない。主はご自身の血によって我らを全く潔め給う。
キリスト内住の恵みをいただいている者は、罪を犯さない(6節)。罪を犯す可能性がなくなったのではく、ことさらに罪を犯して神を悲しませることはしない。神から生まれた者であるなら、罪を犯すことができない。主が内に在すから、主への愛のゆえに罪を犯さない。そして御心に喜んで従う者になる。信じて従っていくなら、必ず導かれる。信じたとおりに成る。
神の子どもとされたい。まず救いの恵みをいただきたい。救いの確信をいただきたい。救いが明確になったら、そこから自ずと聖潔の恵みへと導かれる。全き救いをいただいて、いつ主が来られても、傷なく染みなき者として、喜んで御前に立たせていただきたい。