礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2017.06.04

大いなる約束に期待して

ヨエル2:18-32

本日はペンテコステだ。2000年前に、待ち望んでいた人々の上に約束の聖霊が降られた。その聖霊は、今も注がれ続けている。

本書は馴染みが薄い書だが、大切なメッセージが記されている。ペトエルの子ヨエル(1:1)の素性は不明だが、内容から、南ユダ王国ヨアシュ王の治世(BC.837-800年)に活動したと思われる。時代的には平穏だが、民は霊的に堕落していた。信仰が形式的になっていた。神は裁きとしていなごの災害の警告を発せられた(1:1-2:11)。神は侮られるお方ではない(ガラ6:7)。実際にヨエルの時代にいなごの災害があったようだが、霊的には、終りの時代の神の裁きの預言だ。

それは大患難時代の到来だ。終わりの日にキリストが再臨される。まず空中再臨がある(1テサ4:16,17)。その時待ち望んでいた者、また教会が携挙される。その後、大患難時代が来る。その中で救われる者はまれだ。

大患難時代は神の裁きだ。しかし、神は憐れみ深いお方だ(18節)。小羊の血でエジプトから贖い出されたイスラエルの民を、みすみす滅ぼしたくないと思われ、回復の約束を与えられた(2:12-27)。

主が大いなる回復のみ業をなし給う(21節)。初めの雨と後の雨の約束だ(23節)。前者は種蒔きに必要な秋の雨で、後者は収穫に必要な春の雨だが、リバイバルの約束を意味している。

いなごの裁きに遭うのは民の不信仰、傲慢の故であって、神に責任はない。しかるに、神は「償おう」と言われる。我らは、災いに遭ったのを神のせいにするところがある。自らの不信仰が招いた結果と受け取る謙虚さが必要だ。しかし、自分の傲慢を棚に上げて、神に「償おう」と言わせて平然とする向きがある。神にそう言わせること自体、我らの罪だ。傲慢さ、不信仰と知るべきだ。

神が我らの真ん中に、教会のただ中に救いの勇士、勝利の主としておられる(ゼパ3:17)。この主を知ることこそ祝福の秘訣だ。

大いなる聖霊傾注の約束が与えられている(28節)。「その後」とは終りの時だ。終りの時代はもう始まっている。

ペンテコステの日に、エルサレム市民を前にペテロが説教した。使徒2:16-21はここから引用だ。彼は「その後」を「終わりの日に」と言った。終末のリバイバルの預言の成就だと語った。息子・娘は預言するとは、福音宣教を担うことだ。年寄りが見る夢とは、はかない夢ではなく、確実な新天新地の夢だ。若い男は幻、リバイバルのビジョンを見る(32節)。人々が続々と教会へ送られて来る。信仰が回復される者、新しく救われる者が起こされる。神の救いの計画の完成を垣間見せられる。これが終りの時の大いなる約束だ。

「主の大いなる恐るべき日」(31節)は、使徒2:20では「主の大いなる輝かしい日」となっている。恐るべき日だが輝かしい日、神のみわざが成るリバイバルの時だ。

鍵は「わたしの霊をすべての人に注ぐ」すなわち聖霊の注ぎだ。すべて贖われた者への約束だ。キリストの十字架の血で罪赦され義とされた者に与えられる。ただし機械的にではない。謙遜と渇きと信仰が求められる。不信仰と傲慢を悔い改める謙遜、聖霊を注いでいただかねば進めないとの渇き、主は必ずみ言葉の通りになし給うと信じる信仰だ。

今は終りの時だ。すでに2000年が経過している。長すぎるのではない。神の物差しは異なっている(2ペテ3:8)。まだ来ないと言って侮ってはならない。神はいたずらに実行を遅延しておられるのではなく、忍耐しておられる(2ペテ3:9)。あなたが砕かれて主の前に出てくるのを待ち給う。

厳しいメッセージだ。終りが近いからこそ、神が迫り給う。真摯に受けとめ、従おう。聖霊の注ぎを求め、大いなる約束の実現を期待しよう。