小羊の血による贖い
出エジプト12:1-28
イスラエルの民は、エジプトで430年間奴隷生活を強いられた。民の叫びが神に届き、神はモーセを立てて彼らの救出を図られた。頑ななパロは、モーセの忠告に耳を貸さず、神は、血、蛙、ぶよ…など10のしるしをパロに見せられた。パロはそのつど、悔い改める格好を見せながら、民を去らせることを拒み続けた。ついに長子が撃たれるという最後の裁きが下った。
その前にイスラエルに逃れの道が示された。小羊をほふって、血を鴨居と柱に塗り、また肉を食するという、神の特別な方法だった。これが過越の祭の始まりになった。そして、これはキリストの十字架による贖いを表す。過越の祭が何の意味か分かったら、その人は確かに救われた人だ。この意味が分かった本物のクリスチャンになりたい。
1.血が塗られた(7節)。神の使いは、柱と鴨居に塗られた血を見て、イスラエルの家を過ぎ越した(13節)。民は血によって裁きを免れた。これは我らのことだ。
我らは罪のために神の裁きを受けるべき者だった。しかし、主の血によって赦罪と義認が与えられた。血がしるしだ。十字架の血によって我らはもう裁かれない(1ヨハ1:7)。キリストが裁かれ給うたからだ。
2.肉を食した(8,9節)。食べ方が指示された。①種入れぬパンと苦菜を添えて食べよと言われた。パン種は不信仰の象徴だ。不信仰があると、恵みは届かない(1コリ5:6-8)。苦菜は悔い改めを表す。悔い改めは、はっきりした救いを得るためにどうしても必要だ(1ヨハ1:9)。
②火で焼いて食べよと言われた。小羊を生で食べるとは、キリストを表面的に真似ようとすること、水で煮て食べるとは、キリストを人間的に引き下ろして解釈しようとすることだ。そうではなく、火で焼いて、つまり聖霊の火が通された魂でキリストを受けとめなければならない。自我を十字架につけ、キリストの内住を得ることだ(ガラ2:20)。
③頭も足も内臓もみな食べよと言われた。キリストの頭とは主の心(ピリ2:5文)だ。キリストの心とは、十字架の死に至るまでの、父への徹底的従順だ(ピリ2:6-8)。キリストの足とは、友なき者の友となられた主の謙遜な歩み、キリストの内臓とは、滅びゆく魂への主の愛だ。
キリストは、自分に都合のよい所だけではなく、丸ごと食すべきだ。神の御心だけを求めたゲッセマネの祈りは、主の生き方そのものだった。主は絶えず御心に従い、謙遜に、愛をもって歩まれた。それが我らのいつもの祈りとされ、歩みとされたい。
④急いで食べよと言われた。くずぐずせずに早く、今この時にキリストを信じ、キリストに従うべきだ(2コリ6:2、ヨシ4:10)。主は今恵もうとし給う。こちらで勝手に時を定めたり、延期したりしてはならない。
こうして民は信仰に立って出エジプトをした。これがイスラエルの信仰の原点となった。我らの信仰の原点も十字架の贖いだ。たえず十字架の血潮を仰ぎ、キリストを食らう者になりたい。
その夜、神は寝ずの番をされた(42節)。それほど神は民を愛して贖い出し給うたのだ。主は我らにも十字架の血による全き贖いを与え給う。贖いの恵みが確実に自分のものとなるようにしたい。
その夜は家の外に出ることが禁じられた(22節)。恵みを得るまでは、主のもとから離れてはならない。目を主から離さず、御言葉が語られる所に出続け、メッセージに従い続けよう。独り立ちができるようになるまで、大人の歩みができるまで、主のもとに留まり続けるのだ。主に信任されるクリスチャンになりたい。
子どもに過越の意味を教えるべきことが命じられた(26,27節)。子どもたちにキリストの十字架の意味を伝えることは親の責任だ。信仰は自然に受け継がれることはない。口を開いて伝えねばならない。子どもに限らず、家族に福音を伝えていこう。先に恵みをいただいた者として、喜んで使命を果たさせていただこう。