黄金の生涯
詩篇16:1-11
真実な神は、我らが真剣に求めるなら、み言葉が光を放って解決を与えることを、詩篇は教えてくれる。本篇をバックストン師は“黄金の詩”と呼んだが、なぜ黄金の生涯なのか。
1.主にのみ信頼した歩みだから(1節)
貧しい牧童だったダビデは、ゴリヤテを倒し(1サム17:45,47)、サウルに代わって王位についた。しかし、自分の勇敢さ、功績、権力により頼まず、ただ主により頼んだ。
2.主を嗣業とした歩みだから(5節)
ゆずりの地所(口語訳では「嗣業」)とは、譲り受けるべき土地、主が我らに与えたいと願い給う土地のことで、霊的にはキリストの十字架による赦罪と義認(神の前の正しい立場)であり、さらには十字架の血潮による一切の汚れからの聖潔(きよめ)だ。
この恵みは、主が我らのために測り与え給うた。主は、我らがどれだけ渇いているか、どれだけ本気で信じるかにしたがって恵みを測り与えられる。ただ、どれだけ渇いているかで決まる。結局、神の御心を痛めている自分の姿が分かっているかということになる。主は与えたいと願い給う。我らのために素晴らしいゆずりの地所を備え給う。あとはこちらの渇きと信仰の問題だ。
3.主に教えられる歩みだから(7節)
主はみ言葉によって助言を与え給う。だから教えられ、取り扱われやすい魂になっていたい。柔軟な心でみ言葉を聞き、従っていこうとする魂を、主は教え給う。
4.主の前の歩みだから(8節)
人の前ではない、主のみ顔の前に歩む。主がどう見給うか、主にいかに喜ばれるかに最大の関心を向ける歩みだ(1サム16:7)。主は動機を見給う。何ができるか、何を成したかというドゥーイング(doing)ではなく、どういう魂の状態かというビーイング(being)だ。
ペンテコステの日、聖霊を受けたペテロは、本篇のこのみ言葉を引用して「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた…」(使徒2:25)と言った。主を拝する歩み、常に主の前における歩みだということが分かる。調子や感情に左右されず、常時臨在の前に歩んでいく者でありたい。
臨在信仰とは、古き人をキリストと共に十字架に付け、キリストがわが内に生き給うと信じる信仰だ(ガラ2:20a)。この聖潔の恵みをいただいて、内に在し給う主を絶えず仰ぎ、この主の前を歩むのだ。主の臨在があれば、決して動かされず、平安でいることができる。(9節)。よみの力に襲われても大丈夫だ(10節)。サタンは、キリストの十字架ですでに頭が砕かれているのだ(創3:15)。
5.喜びにあふれた歩みだから(11節)
主にのみ信頼し、主をゆずりの地所として内にいただき、主のみ言葉に教えられ、主の臨在の前に歩む。そのような歩みに喜びが溢れるのだ(ロマ5:11)。
我らも、このような天的な生涯を送ることができる。そのための贖い、そのためのイエスの血潮だったのだ。約束を信じ、主を仰いで求めよう。