ギデオンの精兵
士師記7:1-8
士師記の時代は、イスラエルの歴史で最も暗黒の時代だった。ヨシュア記は勝利の書だが、士師記は失敗の書だ。イスラエルの民は不信仰と不道徳を繰り返した。彼らは先住民族と妥協し、偶像礼拝を行った。神はその裁きとして、彼らを戦闘的で残忍なミデヤン人の手に渡された(1節)。
民はやっと悔い改めた(6:6)。それを主は聞かれ、大勇士ギデオンが立てられた(6:11-)。彼は貧しい無名の農夫だったが、イスラエルのために心を痛めていた。そんな彼を神はミデヤン人からの救いの器として選ばれた。
敵は135000人、イスラエルの兵は32000人(8:10)。4対1の比率だ。勝ち目はない。しかし、主は多すぎると言われた(2節)。その理由は、民が傲慢に陥らないため、また臆病な者が全体の士気を損なわないためだ。彼らはふるいにかけられ、22000人が脱落し、10000人になった。敵の数に対して13対1になった。残った10000人は命知らずの勇士たちだ。しかし、神はまだ多いと言われた(4節)。
ギデオンはただちに従い、二度目のテストを水際で行った。水の飲み方がテストされた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者」9700人が戦列から外され、「ひざをついて飲む者」300人が選ばれた(5節)。敵前での注意深さが試されたのだ。周囲に気を配りながら、いつでも戦えるように水を飲むか、周囲を忘れ、自分の欲求を満たすことに没頭して水を飲むかが問われたのだ。神は、いつでも戦う姿勢をとることができる者をご自分の戦いに用いようとされる。
300人は、最初の32000人の1%弱に過ぎない。選(え)り抜きの精兵だ。敵135000人に対して300人。450対1の比率だ。人間的な力が全く及ばない状態だ。こういうところから主は御業を起こされた。
主はギデオンに勝利の約束を与えられ(9節)、約束の裏付けまで与えられた(10節~)。結果はイスラエルの大勝利だった。わずか300人による圧倒的勝利だった。
全能の神にとって、数は問題ではない(詩33:16-18)。主の戦いだ(出14:13,14、2歴代20:15,17)。要は、私たちがギデオンの精兵になれるかどうかだ。
主はどんな精兵を求め給うか。①祈りの精兵だ(エペ6:18)。信仰をもって大胆に祈るなら、たとえこちらが少数でも、敵は崩れる。私たちも、滅び行く魂のために祈りの手を挙げたい(1ヨハ5:16元)。
②献身の精兵だ。主は「誰かその生命をかけて我に近づくものあらんや」(エレ30:21文)と言われる。主イエスは、十字架に血を流し尽くし、ご自分の命をかけて私たちを救い給うた。私たちは何をもって応えようか。
主はギデオンの精兵を求め給う。こちらが求めさえすれば、こちらに渇きと信仰があれば、主がならせ給う。