十字架の上のキリスト
マタイ27:27-56
主イエスの受難の御苦しみは、どれほどだっただろうか。木曜日の夜に逮捕され、前大祭司アンナスの前、現大祭司カヤパと最高議決機関サンヘドリンの前、総督ピラトの前、ガリラヤ領主ヘロデの前と一晩中裁判をたらい回しにされた。初めから死刑に処すつもりの裁判であり、異例の徹夜の裁判だった。
疲れ切った体に、唾を吐きかけられ、たたかれ、いばらの冠をかぶせられ、嘲弄され、鞭打たれ、粗削りの十字架を背負わされた。そして処刑場ゴルゴタで十字架に釘づけられた。
この言語を絶する苦痛の中で、主は七つの言葉を語られた。死刑を執行するローマ兵のために赦しを乞われた(ルカ23:34)。この祈りは、十字架につけるよう要求したユダヤの指導者たちのため、訳も分からず罵り続ける一般群衆のため、ひいてはこの我らのためでもあった。そして主は、悔い改めた十字架上の一人の犯罪人に救いの宣言を与えられた(同23:43)。さらには、悲しみに暮れる母にいたわりの言葉をかけられた(ヨハ19:27)。ご自分のことは意にも介さないかのようだ。激痛の中で余裕すら感じられる。
しかし、本当の苦しみは午後から始まった。正午から地上の全面が暗黒になった。父なる神の悲しみを象徴すると言う人もいる。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうして…」(46節)と叫ばれた。これは詩篇22:1の引用だが、この苦しみの中で暗唱した聖句を引かれたのは、主はいつも御言葉に釘づけられたご生涯を歩んでおられたことを意味する。
主はついに、愛する父から断絶されたのだ。いつも御心にだけ従っておられた主(ヨハ5:19、8:29)、また父も信任しておられた主(マタ3:17、17:5)にあり得ないことだった。
我らには「どうして…」という資格はない。捨てられる理由があるからだ。我らはみな、神に対して罪を犯した。我らは一人残らず、捨てられねばならない罪人だ。しかし、主には何一つ罪がなかった(1ペテ2:22,23)。ピラトも主の無罪を認めたほどだ(ヨハ18:38)。その主が神から捨てられたのだ。
主は「わが神…」と言われた。「わが父…」ではない。父とは呼べない我ら罪人の立場に立たれたのだ。一条の光もない最暗黒、神の御手の届かない地獄にまで下られたのだ。これが「過ぎ去らせてください」(26:39)と祈られた杯だった。
主がそこまでされたのは、捨てられて当然の我らが捨てられないため、地獄に行くべき滅びの子が、罪が赦され義とされるためだった。
主が死なれたとき、神殿の幕が裂け、地震で岩が裂け、聖徒が生き返った。重要なことは神殿の幕が裂けたことだ。主の十字架の贖いによって、信じる者は誰でも救われ、はばからず大胆に神に近づけるようになったのだ(ヘブ10:19-22)。
神殿の幕は、神がご自身の指で裂き給うたのだ。救いは人間の努力によらず、上から与えられるものだ。すでにあちらで成し遂げられていた、救いと聖潔の全き贖いだ。これを自分のものにできるかどうかは、こちらの信仰次第だ。
十字架を仰ごう。救いと聖潔は成し遂げられている。信仰をもっていただこう。