その足跡に従うようにと
Ⅰペテロ2:11-25
キリストの血によって救われ、選びの中に入れられた我らは、この世で旅人・寄留者として歩むべき者として召されている(2:11)。
それに続いて、しもべに対する勧めが述べられる。結論は「服従しなさい」「従いなさい」だ。それも、神を畏れるように、敬虔をもって肉の主人にも従えと言われている。主人は異邦人であり、気難しい主人、不当に苦しめる主人もいた。しかし、クリスチャンの奴隷は、神の前における良心のゆえに、悲しみを耐え忍ぶよう勧められている。それが神に喜ばれることだ。
キリストが模範を残された(21節)。主は罪を犯さない御方で、口に何の偽りも見いだされなかった(22節)。嘘(うそ)と言えば、ペテロには苦い思い出があった。人の前で主を知らないと言ったのだ。人が嘘をつくのは、自分を守るため、自分を愛するためだ。それが人間の生来の姿だ。しかし、罪なき神の子である主には偽りがなかった。
主はひどい扱いを受けられた。夜に逮捕され、真夜中の裁判をたらい回しにされた。不眠不休で、食事も与えられなかった。目隠しをされて平手で打たれ、鞭で打たれ、嘲弄(ちょうろう)され、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられた。そして、ついに十字架につけられた。
普通は罵(ののし)られたら罵り返し、苦しめられたら脅(おど)すものだが、主は、それが一切なかった(23節)。それどころか、「父よ、彼らをお赦しください…」(ルカ23:34)と祈られた。主が罵り返されなかったわけは、正しく裁き給う神に任せておられたからだ。真実な神は、最後に必ず公正に裁き給うという絶対信頼の故だ。
この主の死によって、我らに救いがもたらされた。罪の赦しのみか、義認の恵みまで与えられた(24節)。我らの罪は主の打ち傷のゆえに癒され、我らは神の前に傷なき者になった(イザ53:5)。我らは罪のために羊のようにさ迷っていたが、神に立ち帰ることができた(25節、イザ53:6)。神との和解が与えられたのだ。
主の十字架までの従順なしには、我らの救いはあり得なかった。我らが救われたのは、我らも主のように従順な者になるためだ。主の足跡とは御旨への従順だ。
しかし、我らのうちには、生まれながらにして神への反逆心がある。過去の罪は赦され、神との和解が与えられても、何かあると反逆心が鎌首をもたげてくる。自己中心で、どこまでも自分がかわいく、人から言われると腹が立つ、というような者だ。神に対する敵対性だ(イザ53:5a)この内在の罪がいかに主を傷つけ、悲しませていることか。
しかし、我らにはイエスの十字架がある。「事畢(ことおわ)りぬ」と一切が成し遂げられた十字架がある。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を…十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24)と、信仰によって決算し、信仰によって主を内にお宿しする。
この主によって、我らは従順な者になる。律法ではなく、恵みによって主の足跡に従うことができる。そういう者にするために、主はいのちをかけて模範を示された(21節)。この高い標準を歩むようにと贖われたのだ。
今の日本に住む我らには、激しい迫害はないとしても、サタンは働いている。彼は贖いの恵みを割り引こう、世と妥協させよう、低きに甘んじさせようと働きかけてくる。恵みをいただいて、主の足跡に従う者になって、罪と世とサタンに勝つ者としていただこう。