誠実を尽くし給う神
エレミヤ31:1-14
3節は、神の無限の愛と神の絶えざる真実をよく言い得たみ言葉だ。真実とは、こちらの変化にかかわらず、不変ということだ。我らは不真実で、すぐに不信仰、不従順になる。イスラエルの民がそうだった。
彼らは、①出エジプト後、恵みを忘れて不平、不満を言った(出16:2,3、17:2,3)。神は彼らに小羊の血による贖いを与え、紅海を渡らせた。彼らに救い出される価値があったからではない。神の愛と真実のゆえだ。それを彼らは踏みにじった。それでも神は忍耐をもって導き続け給うた(申29:5)。
②カナン偵察時も、彼らは不信仰の報告をした。豊かな土地だと知りながら、侵攻は不可能だと言った。結局、神の力を割り引き、否定したのだ。その結果、40年の荒野の旅を経験しなければならなかった。彼らはヨシュア、カレブ以外は荒野で死んだ。それでも神は、彼らの子たちをカナンに導き入れ給うた。神の愛と真実のゆえ、またアブラハムとの契約のゆえだ。
③その後も、民は偶像礼拝に走った。ついに神の裁きが下った。北王国はアッシリヤ捕囚、南王国はバビロン捕囚となった。国家は消滅し、神に捨てられたかのようになった。しかし、神は彼らを決して見捨てず、回復しようとされた(29:10)。70年後に解放され、神殿を再建した。神は絶えず誠実を尽くされた。
我らにとって神の真実はどこに現れたか。
1.我らが義とされることにおいて。1ヨハ1:9
神は独り子を惜しみなく我らに下し、十字架にかけ給うた。ここに神の愛が示された(ロマ5:8、1ヨハ4:10)。不義なる我らが義とされるためだ(2コリ5:21)。我らは、流された血のゆえに、ただ悔い改めと信仰によって、赦罪のみか義認まで与えられた。神は真実をもって我らの罪を赦し給う。
2.我らが聖められることにおいて。1テサ5:24
「そのこと」とは、23節の「全く聖なるものとしてくださる」ことだ。罪赦され義とされて、それで安心かというと、そうではない。すぐに誘惑に負け、肉の欲に負け、不信仰になる。主を信じない、主に従わない者だ。結局は自分が一番かわいいのだ。これでは主の御前に立てない。
しかし、神はキリストの十字架の血潮によって全く聖くすると約束された。救われたのにまた罪を犯す古き人を十字架につけ、信仰によってキリストをわが内に住まわせ申し上げる。この聖潔(きよめ)の恵みをいただいたら、我らはキリストのように神の御心に喜んで従う者になる(ピリ2:6-8)。そうされた魂が、キリストの来臨のときに、責められるところのない者として立つことができる。約束を信じる信仰によって、そうならせていただける。
3.我らが守られることにおいて。1コリ10:13
真実をもって救い給うた我らを、神は真実をもって守り給う。神は、①必要を満たし給う。荒野でマナを降らせ給うた主は、信仰をもって従う者に良き物を与え給う。②危険から守り給う。たとい死陰の谷を歩むとも、主は守り給う。吠えたける獅子のようなサタン(1ペテ5:8)、光の御使いに変装するサタン(2コリ11:14)からも我らを守り給う。
神は愛のゆえに、真実をもって我らを導き、満たし、守り給う。我らがどんな状態にあっても、主は永遠の愛で愛し給う。我らも、主に従い、主の愛の呼びかけに応える者になりたい。