神の恵みの福音
使徒20:17-38
シリヤのアンテオケを出発して第3回伝道旅行に出たパウロは、ガラテヤ、フルギヤ地方を歴訪し(18:23)、弟子たちを激励したあと、トロアスからエペソには寄らないで帰路についた。エペソ教会は彼が心血を注いだ群れだっただけに、本当は寄りたかったのだが(18:20,21)、時間がなかった。そこで、せめての思いでエペソ教会の長老たちをミレトに呼び出し、彼らに語った。パウロの惜別説教だ。
ここで彼は、何を宣べ伝え、どんな態度で奉仕してきたかを語る。彼の奉仕の総括だ。
1.何を宣べ伝えてきたか
パウロは、罪の悔い改めと十字架を信じる信仰を宣べ伝えてきた(21節)。認罪-悔い改め-十字架信仰がはっきりすれば、赦罪-義認-神との和解-新生という最初の救いが明確になる。そこから魂は聖潔(きよめ)の信仰へ進む。
彼が語ったのは、神の恵みの福音だ(24節)。福音とは、我らが義とされるのは、行いによらず、御言葉を信じる信仰によるという良きおとずれのことだ。
御言葉には、①罪と汚れを示す力(ヘブ4:12)、②魂を救う力(ヤコ1:21)、③御国を継がせる力(32節)がある。パウロが宣べ伝えたのは、この救いと聖潔の全き贖いを与える恵みの福音だ。これ以外のもの、これ以下のものは宣べ伝えなかった。
2.どういう態度で奉仕したか
パウロの態度は、いつも謙遜だった(19節)。謙遜の模範はイエスご自身だ。イエスの十字架の死に至るまでの謙卑(けんぴ)は、神の御旨への従順あってのものだった。高慢は不従順から来る。
また、彼は明確な召命感に立っていた(24節)。彼は、使命を果たしさえすれば、死んでも構わないと本気で思っていた。かつては己の義に立ち、教会を迫害していた自分のような者をも召し、遣わし給う主への忠実の表れだった。主が何を為し給うたか、何を献げ給うたかを知れば、そうしないわけにはいかなかった。
3.何に仕えてきたか
パウロは、神の教会に仕えてきた(28節)。教会とは、御子の血で贖い取られた教会だ。十字架の血が教会の基礎だ。
また、教会とは神の教会だ。神が所有し給う教会だ。悪魔は外側、内側から挑戦してくる(29,30節)。悪魔は自分に残された時の短いことを知っているから(黙12:12)、必死に働く。時には猛然と(1ペテ5:8)、しかしたいていはわからないように(2コリ11:14)やって来る。
けれども、神の教会である以上、神が戦い給うから、必ず勝利する。我らはこういう神の教会の一員とされているのだ。
パウロの姿勢にならいたい。主イエスから賜った神の恵みの福音を証しするという、自分の行程を走り終えたい。贖われた我らの任務を果たしたい。