新契約に仕える者
Ⅱコリント3:1-18
パウロの使徒職には、当時疑いを持つ者もいたが、復活の主イエスから直接召しを受けた体験(使徒9:)を根拠に、彼は自らの使徒職を主張した。
彼は、前章で使徒の使命のすばらしさを語った(2:14,15)が、“自己推薦している”との非難が浴びせられた。そこで彼は、自己推薦も他人からの推薦も不要だと反論する(2.3節)。そして、コリント教会員が推薦状だと言う。彼らを見れば、彼らの内になされた神のみわざのすばらしさのゆえに、パウロが神に立てられた使徒とわかると言うのだ。
彼らの魂に働き給うた聖霊こそ、パウロの使徒たる働きの推薦状だ。それは、墨によってではなく生ける神の霊によって、石の板にではなく人の心の板に書かれたものだ。そこに書かれた内容は、どういう御業がなされたのかということだ。「神は我らに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました」(6節)と言う。新しいと言う以上、古い契約があった。それは「石の板」(3節)に書かれた手紙、つまり、モーセの律法だ。
6-9節に、旧約と新約の性格が対比されている。文字に仕える者と御霊に仕える者(6節)、人を殺す文字と人を生かす御霊(6節)、死の務め(7節)と御霊の務め(8節)、罪に定める務めと義とする務め(9節)だ。
ここに旧契約と新契約の違い、すなわち律法とキリストご自身の違いがはっきりしている。律法は死の務めだ。当初は生かすものとして神から与えられたものだが、罪のために我らの心が弱く、律法を守れない。律法によっては罪の意識が生じるだけで(ロマ3:20)、結局我らは、滅びという罪からの報酬を受けることになった(ロマ6:23)。我らを生かすはずの律法が、我らを裁き、罪に定め、殺すものになったのだ。
これに対して、キリストという新契約が現された。我らの罪のために、キリストが身代わりに十字架にかかり、神から捨てられて、罪のための贖いとなられた。我らに新しい契約を与えるためだ。
その契約とは、(1)我らに義認を与える契約だ。我らの罪を赦し、義を宣言し、我らを罪を犯す前の状態にまで回復する。そして、罪に死んでいた我らを生きる者にする(エペ2:5)。我らは律法の行いによらず、信仰によってこの恵みにあずかるのだ(ロマ3:24)。
(2)我らに聖潔(きよめ)を与える契約だ。キリストの血は、我らに過去の罪の清算だけでなく、現在の汚れからの聖潔まで与える。救われたのになお罪を犯す自分、どこまでも己がかわいい自我を十字架に付け(ガラ5:24)、キリスト内住の恵みをいただいて(ガラ2:20)、聖霊に導かれる生涯を始めることができる。これが「御霊に仕える者」だ。ここまでするのが神の恵み、神の力だ。
この新契約は、旧約聖書にすでに預言されていた(エレ31:31-34)。神の御心がわが心の内にあり(詩40:8)、内住の主と共に神の御心を喜び、御心に従う者になる。そして、栄光の望みをいだいて進む者になる。栄光から栄光へと、キリストと同じ姿になるのだ(18節)。
契約は一方的ではない。こちらの署名が必要だ。信仰という署名をしるしたい。神はアブラハムと契約を結ばれた。彼は全面的な信仰、信頼という署名を記した(創17:1)。
我らは、このような新契約に仕える者にされている。我らを義とし、聖くすると約束し給う主に、信仰の応答をしたい。旧い契約に戻ってはならない。引き戻そうとする様々な力が働くが、イエスから目を離さないで、信仰に立って進もう。主に心を向けよ(6節)。不信仰の被いを除き(出34:33-35)、素直に信じ、素直に従い、新契約を我がものにしよう。