主の再臨を待望して
黙示録22:1-21
本書は、老聖徒ヨハネが流刑先のパトモスで見せられた終末の幻の記録だ。前章で、聖都エルサレムの栄光の姿が現された(21:10-27)。神と小羊が神殿であり、小羊が都の明かりだ。門は閉ざされることがない。夜がなく、恐れるものがない。小羊のいのちの書に名を記されている者なら、いつでも誰でも出入りできる。実に素晴らしい光景だ。
その聖都を見せた同じ御使いが、いのちの水の川を見せる(1節)。源流は神と小羊との御座だ(7:17a、21:6b)。その泉から、小羊が招き続けていた。そこから川が流れ、川の両側にはいのちの木が繁り、十二種の実が毎月成り、葉は薬用に供せられる。エゼキエルの幻を想起させる(エゼ47:1,2,12)。彼はこの新しい聖都を見ていたのだろうか。
聖霊の河はこのいのちの水の川の予表と思われる(ヨハ7:37,38)。聖霊を頂いた者が、新しい都に入ることができる。それが額に神の御名が記されている者ということだ(4節)。そこでは、呪われるものは何もない(3節)。喜び、感謝、平安があるのみだ。なぜか。真の礼拝を捧げるからだ(3,4節)。地の王たちは自らの栄光を携えて礼拝するが(21:24)、贖われた者たちは主の御顔を仰ぎ見る。主の御顔だけを仰ぎ見、真心からの礼拝を捧げる。
これらの言葉は、信ずべき真実な神の言葉だ(6節)。「すぐに起こるべき事」(同)と言うが、あれから2000年たった今も、まだ起こらない。嘲笑う者、侮る者もいるが、真実な神は忍耐し給う(2ペテ3:9)。「預言のことばを堅く守る者」すなわち御言葉に従う者には豊かな祝福が与えられる。
我らは、こういう新天新地に招かれている。信じて喜び従う者になりたい。罪から救い、汚れから潔められ御国に入れる者になりたい。
聖なる都エルサレムは、教会の完成の姿だ。もはや目に見える教会はない。呪われるべきものは何もなく、喜んで絶えず御顔を仰ぎ見ているという、キリスト内住の恵みを得たクリスチャンの姿だ。まさに内に在すキリスト、栄光の望みだ(コロ1:27)。
御使いはヨハネに、「この書の預言のことばを封じてはいけない」と言った(10節)。封印した巻物が、ユダ族から出た獅子(=キリスト)により、贖われた民のために一度開かれた(5:4,5)。しかし、裁かれる者たちには封じよと言われた(10:4)。ここではまた「封じてはいけない」と言われる。一旦、イエスによって開かれた御言葉は、裁かれる者には封印されても、新天新地の現された神の民には、開かれたままで、決して閉じられない。御言葉は開かれている。自ら閉じてしまわないようにしたい。
「見よ。わたしはすぐに来る」(12節)と来臨の2回目の予告だ(7節)。その時主は、「しわざ」つまり信仰と従順に対して報いを与え給う。どれだけ信じて従ったかに応じて報いが与えられるのだ。「わたしはアルファであり、オメガである…」(13節)と、天地を創造し、滅ぼし、新天新地を創造し、全てを帰結し給う主が与え給う報いだから、確かな報いだ。
「来りたまえ」(17節)は、キリストの花嫁たる教会、新天新地の約束が与えられている贖われたクリスチャンの切なる求め、主の再臨を心から待ち望む叫びだ。こう叫ぶ者を、主は「渇く者は来なさい…」と招き給う。この主の最後の招きに答えるか否かが、最終決定になる。ここまで招き続けられているのだから、我らが答えないなら、どれほど主は悲しまれるか。
「しかり。わたしはすぐに来る」(20節)との主のお言葉に我ら希望の一切はかかっている。全ての事は主の来たり給うまでだ。その時、全ての約束は成就する。贖いは完成し、希望は満たされ、矛盾は解消し、不幸は取り除かれ、悪は滅ぼされる。
「アァメン、主イエスよ、来りたまえ」(20節文)は、地上教会最後の祷告であり(小島師)、再臨待望の熱祷だ。今まで2000年間捧げられてきた。もう機が熟している。主イエスは今にも御座から立ち上がろうとし給う。いよいよ待ち望みたい。また宣教の聖業に励みたい(1コリ15:58)。