神との交わりにあずかる者
黙示録3:14-22
本書は、終末に関する神のメッセージであり、我らの救いの完成が表わされている。使徒ヨハネは、ネロ皇帝の迫害下、流刑先のパトモス島で、全世界の遠大な終末の幻を見せられ、記録した。
7つの教会に書き記せとの命令が与えられ(1:9-16)、7つの燭台と人の子のような方の幻が見せられる。これは主イエスご自身だ(1:17-20)。7つの教会とは、たぶん彼が牧会したことのある実在する教会だ。
ラオデキヤ教会へのメッセージは、「冷たくもなく、熱くもない」(15節)と言われているように、無関心の罪への警告だ。ラオデキヤの町は、3つの貿易の道が交差する、アジアでの商業の中心都市だった。大きな銀行、医科大学、衣服工場があり、多くのユダヤ人が住んでいながら、皇帝礼拝、ゼウス礼拝が盛んだった。人々は、物質的な豊かさから、その信仰は生ぬるくなり、神に対して無関心になった。
彼らは「自分は富んでいる…」(17節)と傲慢になった。物質的な富に満足し、それよりはるかに大切な霊的な富の追求を忘れた。彼らは、自らがいかに惨めな、憐れむべき者であるかに気がつかない。彼らは、富んでいると思っていたが、実は貧しい者であり、見えていると思っていたが、実は見えない者であり、乏しいものは何もないと言っていたが、実は裸だった。
そんな彼らに、主は、3つのものを買えと言われた。金、衣、目薬だ(18節)。火で精錬された金とは、神を敬い畏れる信仰、全能の神への信頼だ。白い衣とは、義ときよきの衣、義認と聖潔(きよめ)の恵みだ。目に塗る目薬とは、自分がどういう者かが見えるためのものだ。
我らの魂にとって、順序としては第一に目薬だ。傲慢で、神を悲しませ、人を傷付けている自分の真相を知らなければならない。
第二に白い衣だ。そのような惨めな裸の者も、キリストの十字架の血で被われる。罪の赦しと義認の恵みが与えられる(ロマ3:24)。そのためには、認罪と悔い改めが必要だ(19節、詩51:17)。救いがはっきりしたら、自分の内に御心に沿わない古き人があることがわかってくる。これを十字架に付け、始末していただき、キリストに内住していただくという聖潔の恵みに開かれていく(ガラ2:20)。そして、神の前に傷もしみもない者として立てる魂に造り変えられるのだ。
第三に精錬された金だ。神への絶対信頼と絶対服従だ。服従できるのは信頼しているから、また愛しているからだ。律法ではなく、恵みによって主に従える。外側ではなく内側において、徹底して神の御心に従順であったキリスト(ヨハ5:19,8:29)に似る者となる。
「視よ、われ戸の外に立ちて叩く…」(20節文語)とは、素晴らしい神との交わりだ。内にキリストを宿し、御心を行うことを無上の喜びとし、神もわが心にかなう者と証し給う者、絶えず御心を伺い知り、ただ主が喜び給う事だけに専心する者になりたい。
主は我らの内に入りたいと願い給う。我らのほうで戸を閉ざしていないか。信仰の扉を開けよう(ガラ5:24)。十字架を仰ごう。主は語り続け給う。聞いたら、戸の所まで行って、手を伸ばして開けよう。つまり従うことだ。いつまでも先に延ばすなら、いつか主は戸の前から去られる(雅5:2-6)。
扉を開けようとするとき戦いがある。サタンは黙っていない。開けさせまいと必死になって挑んでくる。しかし、我らが戦って、従って、開けるなら、主は直ちに入って王となり給う。「わたしが勝利を得てわたしの父と共に…」(21節)とあるように、我らが主と同じ立場に立たせられるとは、驚くべき恵みだ。神との交わりにあずかる者になりたい。本気で求めていこう。