礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.10.30

神のイスラエル

ガラテヤ6:1-18

パウロは、キリストの十字架への信仰による救いという純粋な福音を伝えた。ガラテヤの人々は、その福音を純粋に信じて救われた。しかし、律法主義者らがかき乱し、律法、とくに割礼の必要性を主張した。教会の人々は惑わされ、福音から逸脱した(3:1-5)。彼らは、信仰によって救われたのに、また肉の行い(律法)に逆戻りしてしまったのだ。パウロは、怒りをもってこの手紙を書いた(1:6-9)。

ガラテヤの人々が陥った危険は、我らにもある。我らが救われたのは信仰による(エペ2:8)。神の恵みと我らの信仰による救いだ。①神の恵みとは、キリストの十字架だ。我らがまだ罪人だったときに、罪なき神の御子は我らのために十字架で死なれた。この十字架を信じる信仰が与えられ、我らは救われた。

②信仰とは十字架への信仰だ。十字架わが罪のためなりと信じる、十字架信仰だ。神の側で備えられた十字架の恵みに対する、我らの側の信仰だ。

十字架こそ福音の中心だ。なぜなら、そこに我らの救いがあるからだ(14,15節)。神は我らの罪のためにキリストを十字架につけ給うた。この十字架を信じるなら誰でも救われる。認罪-悔い改め-十字架信仰という手順を踏んで、赦罪-義認-神との和解-新生の救いをいただくことができる。

キリストの救いは全き救いだ。我らを聖潔にまで至らせる。明確に救われた者は、内側の汚れに気づく。互いに愛し合うべきことは聖書の教えだ(ヨハ13:34、1ペテ1:22、4:8)。しかし現実は愛することができない。なぜか? 肉だからだ。しょせんそんなものと開き直ることもできるだろうが、平安も喜びも勝利もない。明確に救われた魂は諦められない。

イエスは十字架上で「事畢(ことおわ)りぬ」と贖いを完成し給うた。主は我らを、そのままで放置しておくような、中途半端な救い方をされない。「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に…」(14節)。十字架に付けられたのはキリストだ。しかしそこに自分も一緒につけられている。自我の磔殺だ。

本書に3つの磔殺がある。我(2:19)、肉・情・欲(5:24)、世(6:14)の磔殺だ。①己れの意志が十字架に付けられる。こう進みたい、ああなりたい…という我意が主の御旨に屈服するのだ。②肉・情・欲が十字架に付けられる。「汝この者共に勝りて我を愛するか」との問いに応えて、イサクを献げるのだ。③世が十字架に付けられた。我が十字架に死んでいるから世は無力だ。

磔殺された魂は空っぽになる。そこへ聖霊が臨み給う。キリストが内住されるのだ。部分的な修正や補強ではとうてい間に合わない。古き人の徹底的な破壊と、新しき人への根本的な建設だ。十字架による破壊と聖霊による建設、十字架と聖霊による新創造だ。

肉の割礼の有無は問題でない。魂が新創造されることこそ重要だ(15節)。聖潔は道徳ではなく、神の前に魂がどういう状態であるかだ。非の打ち所のない人間になるのではなく、神のみ心に従順に従う魂になるのだ。

十字架によってこの恵みが与えられる。十字架信仰によって新しくされ、生かされるのがクリスチャンだ。十字架は我らに罪の赦しを与え、汚れからの潔めを与える。この十字架以外に誇るべきものはない。全き贖いは、あちらでは既に成し遂げられている。要は信仰だけだ。絵にかいた餅に終わらせるかどうかは、こちらの信仰次第だ。

信仰による全き救い。この法則に従って進む人々こそ、神のイスラエル、十字架信仰の法則に従う霊的イスラエルだ。十字架への信仰によって義とされ、十字架への信仰によって聖とされた魂になりたい。