礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.09.18

キリストの威光の目撃者

Ⅱペテロ1:12-21

ペテロには、イエスによる召命、三度の否定、復活の主との出会い…など、忘れられない思い出があったが、その中で、変貌山での体験(マタイ17:)は強烈な印象が残っていた。彼は、「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」(16節)と言う。当時は訳が分からなかった。十字架を経ての栄光を理解できなかったのだ。キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、復活して栄光の姿になられた。十字架の苦難あっての栄光だった。そのことがペテロは後でわかった。

ペテロは十字架と復活のキリストを目撃した。私たちもこのキリストの威光を目撃したい。どういうお方として目撃するか。

 

1.贖いの恵みを与え給うお方として目撃する

私たちには尊い、すばらしい約束が与えられた。それは神のご性質にあずかる者となるとの約束だ(4節)。私たちは、かつては罪人のかしら、滅びの子、生まれながら神の怒りを受けるべき者(エペソ2:1-3)だったが、キリストの十字架の贖いによって、罪と滅びから救い出された。傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血により、滅びの子から神の子へ移し変えられた(1ペテロ1:18,19)。救われ、神の子とされた私たちは、神に似る者、神のご性質(=聖さ(1ヨハネ1:5))を受け継ぐ者になる。

この約束に対して、非人間的になるのは嫌だとか、無理だとかいう否定的な2つの反応がある。しかし、汚れたまま、不信仰と不従順のままが人間的か。本来の人間は神の前に聖さと自由を持つ者だ。それが、サタンの誘惑によって失われた。しかし神は、私たちが肉のままでいることに満足されない。肉は神に対する敵対性だからだ。神は何とか私たちを聖めようとされ、そのために御子を十字架にかけられた。

また、こんな者がどうして聖くなれようかと思う者がいる。自分の力では不可能だ。だからキリストが成し給うた。主は十字架で贖いを完成された。罪の赦しのみか、義認の恵みまで与え、さらに神に敵対する肉を十字架で始末し、キリストを内住させ給う。神が成し給う神の御業だ(マルコ10:27)。

 

2.知識を与え給うお方として目撃する

知る(3節)とは頭の理解だけでなく体験的に知ることだ。私たちが知るべきものは、①主の選びの計画。こんな者が選ばれたのはなんと不思議か(ヨハネ15:16、エペソ1:4)。②主の贖いの愛。キリストはどれほど私たちを愛されたか(ヨハネ13:1、15:13、1ヨハネ3:16)。③主との合一。己れに死に主に生きていただく恵みを知るのだ(ピリピ3:10,11)。

体験的な知識(ピリピ3:8)とは主を目の当たり見ることだ。キリストの威光の目撃者になりたい。ペテロは変貌山で「これはわたしの愛する子…」との御声を聞いた。私たちも神からこの御声をかけられる者になりたい。この御方をいつも目の当たり拝することが、私たちの信仰を生かす秘訣だ。信仰は生かすべきだ。生きた信仰とは、いつも働かせられる信仰だ。どんな絶望的な状況でも、神に信頼できる信仰だ。

主の全き贖いを体験し、神の性質にあずかった者にならせていただこう。キリストの威光の目撃者とされ、この主を証ししていく者としていただこう。