収穫の主に祈れ
マタイ9:35-10:4
イエスの公生涯は3年半だった。短いだけに、主は寸暇を惜しんで目まぐるしく活動された。9:35-38には ガリラヤ伝道の総括が述べられている。ここから、主の宣教に対する熱い思いがうかがえる。そして宣教の動機、目的、手段を学ぶことが出来る。
1.宣教の動機
主は、羊飼いのない羊のように弱り果てている群衆を見て、かわいそうに思われた(36節)。主の宣教は、憐れみを動機としていた。憐れみは神ご自身の思いだ(エペソ2:4)。憐れみとは、罪過と罪の中に死んでいた我らに対する、神の絞り出すような愛だ(ヨハ3:16、2コリ5:21)。神から遣わされたイエスは、いつもこの思いで悲惨な状態の群衆(エゼキエル34:1-10、エレミヤ6:14,15)を見ておられた。
中風の男が癒され(1-8節)、取税人マタイが救われ(9-13節)、会堂管理者の娘と長血の女が救われ(18-26節)、二人の盲人の目が開かれ(27-31節)、悪霊に憑(つ)かれた者が癒された(32-34節)。みな羊飼いのいない羊たち、平安がないのに平安とごまかされてきた民で、弱り果て、傷付き、倒れていた。そこに主の憐れみの目が向けられた。主の宣教の動機は憐れみだった。
2.宣教の目的
主は「収穫は多いが、働き手が少ない…」(37節)と言われた。弱り果てている群衆を見て「収穫」と言われたのだ。この群衆は、自分は大丈夫、このままで悪くないとうそぶく者たち、見えると言い張る者たちではなく、罪を認めて苦しむ人々、救われたいと願う人々、慰めを求める人々、御言葉に渇いている人々だった。
神の畑は収穫を待っている(ヨハネ4:35)。刈り取られ、御国の蔵に入れられるべき魂、罪が赦され、傷が癒され、渇きが留められて、天国に入れられるべき魂が多くいる。この収穫のための宣教だった。主は、自分の名誉や報酬のために福音を宣べ伝えられたのではない。自分のことは考えておられず、ただ御国の収穫のために働かれた。
「収穫」にはもう一つの意味がある。終末の取り入れ(13:30)という意味だ。御国の門が閉ざされる時が接近している。主の再臨が近い。時がない。宣教は急がれている。だから今のうちに…という主の思いがあった。
3.宣教の手段
主は、「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように…」(37節)と言われ、十二弟子を選ばれた。神は人を通して御業を起こされる。救いを待っている魂は多い。宣教は急がれている。しかし、主一人では手不足だ。働き人が必要だ。
十二弟子たちはすでに召されていた。漁師、取税人、熱心党員など出身は様々だった。地位や身分のある者たちではない。むしろこの世では無きに等しい者を、主はあえて選ばれた。主は、彼らを選ぶのに徹夜の祈りをされた(ルカ6:12)。いい加減な思いではなかった。それでも裏切る者が出た。不従順と傲慢の恐ろしさを思う。
主は働き人を求め給う。神の畑は収穫を待っている。手をこまねいて見ていてよいわけはない。「だれを遣わそう…」(イザヤ6:8)との主の問いに、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」(同)と応えよう。宣教の戦いに、主の思いをもって遣わされたい。
しかし、そのためには、主の働き人としての訓練を受けなければならない。主が弟子たちを召されたのは、まずみそばに置くためだった(マルコ3:14)。主のみそばでまず自らの魂が整えられて、初めて遣わされ得る。十字架の贖いの恵みが徹底され、不信仰・不従順が取り除かれて、そこから派遣される。
我らも、主のもとで魂を整えられ、刈り入れを待つ神の畑に出て行こう。主の勝利を信じ、収穫の主を信じて遣わされて行こう。