大いなる希望
Ⅱペテロ3:1-18
本書全体の要約は「ますます…進め」(18節文語訳抜粋)だ。進んでいくと、神の御心、ご計画がわかってくる。神は私たちに幸いな計画を持っておられる(エレ29:11)。同時に、世の終わりが近づいているという厳しい面があることも事実だ。
初代教会は熱い再臨信仰に燃えていた。しかし、侮(あなど)る者たちによって再臨が否定され、歪曲(わいきょく)される面もあった。偽教師たちは「初めからのままではないか」(4節)と主張するが、そこにはみ言葉への信仰は皆無だった。ノアの洪水の時もそうだった。同様に、世の終わりも必ず来る。神は水によっては滅ぼさないと誓われた(創9:11)が、世の終わりは火によって到来する(7,10節)。想像するだけでも恐ろしい。
しかし、私たちには新天新地の希望がある(13節)。「正義の住む新しい天と新しい地」と言われる、神の住み給う都が約束されている(黙21:1-4)。私たちは、神が共に在し、御心だけが行われる新天新地を待望している。だから私たちは、「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない」(11節)。敬虔(けいけん)とは、現実の中で神がわが内に在(いま)すと確信する、キリスト内住の信仰にほかならない。自我が十字架につけられ、キリストが現実に内住し給う恵みをいただかなければ、聖く敬虔な行いをしていることは不可能だ。
キリストは十字架にかかり、私たちに罪と滅びからの救いを与えてくださった。さらに、私たちの内の肉も共に十字架につけ、あらゆる汚れからの聖潔(きよめ)を与えてくださる。この恵みをいただいて、私たちは初めて、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られる(14節)神の日を待ち望むことが出来る。
再臨と聖潔は不可分だ。聖潔の信仰に立たなければ、再臨の希望はない。きよくなければ、主の前に立てないからだ。功績、熱心、経験では立つことはできない。主がご覧になるのは、外側ではなく内側だ。doingではなくbeingだ。まずこのままでは立てないと、絶望するところから始まる。そこから求めれば、必ず主は導いてくださる。そのためにキリストは十字架で血潮を流されたのだ。
主は必ず再臨される。まだ来ないと言って、み言葉を侮ってはならない。神はいたずらに延期されているのではない。一人も滅びず、全てが救われるようにと切望しておられる。神のビジョンとは福音宣教だ。そして神のビジョンとは、私たちの全き救いだ。救われた者全てが潔められ、再臨の主に会い、新天新地に入れるようにと、神は忍耐しておられる。
神は我らに大いなる招きを与え給うた。神は我らに、キリストの十字架による全き贖いという大いなる救いを与え給うた。そして神は我らに、神の前に立てるという大いなる希望を与え給う。この望みに進んでいきたい。そして、滅びゆく多くの魂の救いを祈って、証ししていく者としていただこう。
神は忍耐してい給う。この忍耐は、我らのためでもある。いつになれば大いなる望みへ進んでいくのか、いつになれば滅びゆく魂のために祈る者になるのか、と神は我らを待ち給う。神の忍耐に応えよう。