砕かれた悔いた心
詩篇51:1-19
本篇の背景は、Ⅱサムエル11章、12章にある。ダビデは優れた人物で、少年時代にゴリヤテを倒し、のちサウルの後を継いで統一イスラエル王国を確立した。しかし一度大罪を犯した。部下ウリヤの妻バテ・シェバと関係を持ち、ウリヤを謀殺するという姦淫と殺人の罪を犯したのだ。
彼は一つの罪から泥沼に陥った。人間の弱さ、もろさをこれほど暴露した記事はない。もっとも悲しいのは、彼がすぐに罪を犯したとわからなかった点だ。預言者ナタンに指摘されるまでわからなかったのだ。指摘されて、初めて自分の罪と直面した。彼は今まで立派な人間だと自認してきた。確かに偉業を成し遂げてきたが、今、たった一度の罪によって全部崩壊した。彼は深刻に神の前に出た。
1~4節に「そむきの罪」、「咎」、「罪」…と、罪に関する言葉が羅列されている。彼は自らがどんな者かがわかった。「そむきの罪」、つまり神からの離反こそ自分の罪だとわかったのだ。犯した罪の大きさもさることながら、自分の存在そのものが罪だと認めたのだ。5節は深い認罪を示す言葉だ。
我らは生まれながらの罪人だ。ダビデはこの罪性をナタンによって知らされた。み言葉の光によって照らされなければわからないことだ。我らは自分の罪深さをどれだけ知っているか。パウロは「私はその罪人のかしらです」(1テモテ1:15)とまで言った。この深い認罪が必要だ。
滅びるしかない自分、果てしない底なし沼に沈んでいく自分の姿を見た者を神は憐み給う(1節)。そして、そういう魂を神は見捨てず、ヒソプをもって、つまりキリストの十字架の血をもって赦し給う(7節)。
罪なき神の子キリストが十字架にかかられたのは、我らの身代わりだった(2コリント5:21)。捨てられるはずのない神の子が、父から捨てられ給うたのは、捨てられて当然の我らが捨てられないためだ。神はキリストの血により、我らの一切の罪を赦し、義とし給うた。我らに必要なことは、砕けた魂となることだ(17節)。神が喜ばれるのは、形式的な礼拝、見かけだけの熱心さ、人前での奉仕ではない。「砕かれた、悔いた心」だ。
それは、①プライドも体裁も一切捨て、へりくだって、ありのままで神の前に出て罪を認める魂、②一つ一つ具体的に、神の前で悔い改める魂、③わがための十字架と信じる魂だ。
まず義認が明確にされたい。義とされた恵みがどれほどのことかを知った者とならせていただきたい。
「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(10節)とある。神の救いは全き救いだ。救われてもなお神に喜ばれない古き人まできよめ、ご自身のものにし給う。ダビデの罪は、実はこの神に喜ばれない古き人、どこまでも自分の欲望を満足させようとする自己中心性、突き詰めれば己が一番かわいいという自我だったのだ。彼は、そこをみ言葉によって示され、取り扱われた(ローマ6:6)。
内側の汚れが始末され、キリストが内住し給う恵みをいただいて、こんな者が御前に傷なき者として立たせていただけることを感謝する魂となりたい。義認が土台だ。ここがあいまいでは先に進まない。
砕かれた、悔いた心にされよう。先入観、固定観念など一切を捨て、神の前に出よう。主はそんな魂をさげすまれない。