だれが、主の山に登りえようか
詩篇24:1-10
詩篇24篇は、礼拝をささげる私たちがどのようであるべきなのかを教えてくれる。
直前には、有名な23篇がある。主が私たちを導き、もてなし、養ってくださる。私たちの側は、主を信頼して、主の御側におらせていただく。神は私たちを緑の牧場に招いてくださる。私たちはその招きに応じ、神の御側に出て行く。そこでもてなされ「私は、乏しいことがありません」(23:1)と告白し、「いつまでも、主の家に住まい」(23:6)たいと願う。これが私たちの賛美となり、感謝となる。神の招きは誰彼の区別がなく、「緑の牧場」、「いこいの水のほとり」は誰にでも与えられる。しかし、それは、私たちが自らを甘やかす口実にはならない。なぜなら、礼拝は神の御前だからだ。礼拝をささげるとは、神の御前で自らの姿を省みることにつながるからだ。だから、23篇の後には24篇があるのだ。
24篇の中心は3節である。これは、礼拝者が神の御前で自らを省みる姿だ。礼拝の只中に神の臨在がある。そして、神は礼拝者に語りかけられる魂や生き方がどうなっていのかという語りかけだ。自らを省みるとは、この語りかけに真摯に向き合うことである。
詩篇24篇のポイントは3つある。①きよく歩む(4節)、②神を求める(6節)、③栄光の王に入っていただく(7節~)。まず、ポイント①だ。神は、私たちの手の業、歩みはきよいか、さらには、心の奥底や動機はきよいかと問われる。これに対して、私たちは真摯に向き合うことが求められる。ただ、私たちは自分の側の何かで自らをきよくすることはできない。では、どうすればよいのか。(ヤコブ4:8)。これが、ポイント②につながる。絶えず神を求めていく。私たちが神を求め続けるとき、神は私たちに会ってくださり(申命記4:29)、私たちは神を見つけることができ(エレミヤ29:12,13)、活き活きと命にみなぎって生きることができる(アモス5:4、詩篇22:26)。そして、その先にあるのは、ポイント③だ。神を求め続ける者のところに、栄光の王が入ってくださる(ヨハネ黙示録3:20)。この栄光の王は、霊の戦いに力があり(8節)、私たちと共にいて、守り、助け、励まし、慰めてくださるお方だ。このお方がいてくださるから、私たちはきよく歩むことができる。
これらのポイントは、私たちの救いのプロセスでもある。教会に来ると、自分の内側に光が当てられる。神からの重要なアプローチだ。これによって罪がわかる(ローマ3:10)。自分の罪がわかった者は、必然的にポイント②に行くはず。ご自分を求めてくる者に対して、神はイエス・キリストの十字架による救いの道を示してくださる。私たちは自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架を信じることで、罪を赦していただくことができる。これが義とされるということだ(5節、ローマ3:22-24)。ポイント③とは、栄光の王、イエス・キリストを私の救い主として信じ、心に受け入れることだ。この救いの道を歩み始めた者は、遅かれ早かれ、必ずもう一度ポイント①のアプローチが突きつけられる。救われた後の私たちは、肉のためにきよく歩むことができない。素直に自分の実情を認め、そのままにしておくことができなくなった者が、もう一度ポイント②に進む(ガラテヤ5:24)。十字架の上に自分の肉も欲も、つまり、自分自身をつけ、始末をしていただく。そうした者に、ポイント③キリストが私の内側に来て、生きてくださる(ガラテヤ2:20)。このようにして、キリストが内側に生きてくださる魂こそ、きよい歩みを送ることができる。
礼拝とは私たちの歩みそのものだ。神の御前で憩い、神からの光を当てていただき、私たちが神に近づいて神を求め、神に臨んでいただくプロセスそのものだ。「だれが、主の山に登りえようか」という語りかけは、真の礼拝者にとって必要なことなのである(ローマ12:1,2)。