ただ信ぜよ
ルカ8:40-56
聖書はいつも、信仰とは何かを我らに教える。本章に4つの信仰の物語がある。①種蒔きのたとえ(4-15節)、②湖上の嵐(22-25節)、③病の女性のいやし(43-48節)、④死んだ少女の生き返り(49-56節)だ。
種蒔きのたとえは群衆に語られたが、その意味は弟子たちに明かされた。彼らは信じて従うことの大切さを学んだ。しかしイエスを信じられず、嵐の中で恐れた。12年間病を患う女は、決死の思いでイエスのもとへ行き、信仰をもって衣のすそに触れ、イエスは彼女の信仰を認められた。
今、ヤイロに「ただ信ぜよ」と言われる。娘はすでに死に、もはや何の望みもない。しかし主は「信ぜよ」と言われるのだ。ヤイロはイエスを信じた。信じることができない状況の中で、彼は主を信じた。その結果、娘は生き返らせらされた。
信仰とは、主を信じること、なし給う主を信じることだ。およそ望み得ないことを、主の御言葉により、主の真実に信頼して望むのだ。
ここでアブラハムを思い起こす。彼は神から祝福の基となると約束をいただいた。彼は死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた(ローマ4:17口語)。望み得ないのに、なおも望みつつ信じたのだ(ローマ4:18口語)。
死人が生き返ることなどあり得ないことであり、信じがたいことだ。しかしヤイロは信じた。するとその通りになった。信じた通りになったのだ。
「恐るな、ただ信ぜよ、さらば娘は救われん」(50節文語)とのみ言葉は、主の真実を我らに教える。主の真実は、(1)我らが救われること、(2)我らが全く聖なる者とされること、(3)我らが試練の中で守られることにおいて現される。
(1)Ⅰヨハネ1:9 我らは、罪過と罪の中に死んでいた者だった(エペソ2:1-3)。しかし、神の豊かな憐れみと大いなる愛が示され、キリストの十字架を通して我らは救われた。罪を認め、神の前に砕かれて悔い改め、キリストの十字架わがためなりと信じる信仰により、我らに「赦罪-義認-神との和解-新生」の救いが与えられた。ただ信じる信仰によって、死んでいた者が生きた者になったのだ(イザヤ45:22)。
(2)Ⅰテサロニケ5:23,24 救われた魂は、やがて身分の内の醜さ、神に敵対する性質に気づく。自我、古き人のためだ。その古き人を十字架に付けるなら(ガラテヤ5:24)、キリストが内に臨み給う(ガラテヤ2:20)。そして、キリストの命で生きる者、つまりキリストのように神のみ心に従って生きる者となる。あれほど不従順だった者がそこまでされるとは、人間の考えではあり得ないことだ。しかし主はなし給う。ただ、我らが信じれば、主は与えてくださる。謙遜と渇きと信仰をもって近づく魂に、主は惜しみなく与え給う。
(3)Ⅰコリント10:13 そして、主は、あらゆる試練、危険、困難から我らを守り給う。この終わりの時代、サタンは吠えたける獅子のごとく(Ⅰペテロ5:8)、また光の天使に変装して(Ⅱコリント11:14)やって来る。しかし主は、ご自身の血で贖い取られた魂を、みすみす敵の手に渡されることはなさらない。我らの側に、主に対する信頼と愛があれば、主は真実に守り給う。
とても不可能だ、無理だと思えるような中で、主を信じるなら、必ずみわざが現される。状況を見て恐れないで、ただ真実な主を信じよう。