礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.04.24

主のために生きる

Ⅱコリント5:11-21

我らは、一度限りの人生を明確な目的意識をもって生きたい。キリストを知る前の我らは、自分のために生きてきた。自分の時間、自分の財産、自分の、自分の…と。しかし、そうでないことが分かった。自分のために死んでよみがえったキリストを知ったからだ。

死にてよみがえりしキリストは、我らに何をなし給うたか。

 

1.我らの魂を生き返らせ給うた

我らはかつて、罪過と罪の中に死んでいた者で(エペソ2:1)、罪のために裁かれ、滅び行く者だった(10節)。そんな我らを、主はご自身の血をもって救い給うた。

罪なき神の子が十字架にかかられたのは、我らが神の義となるためだ(21節)。本来神だけが持ち給う義が、我らに与えられるという。赦罪と義認だ。主の十字架の愛のゆえに与えられる恵みだ(ローマ5:8)。

まず、この神の愛を受け入れ、救いの恵みをいただきたい。すでに救いをいただいた者も、もし救いの確信がないなら、悔い改めと信仰をもってそのまま主のもとに出よう。確信がない原因は、認罪・悔い改めの不徹底だ。

 

2.我らの魂を再創造し給う

救われたら万事解決かというと、そうではない。「いつも喜んでいなさい…」(1テサロニケ5:16-18)のみ言葉を読むたびに、自分がこのみ言葉からどれほどかけ離れているかを認めないわけにはいかない。

すぐに不平・不満、愚痴が出たり、人と比較して浮き沈みしたり、感情によって左右されたり、言われたら言い返さずにはおけなかったりする情けない者だ。しょせんこんなものと思ってはならない。キリストの救いを低く値積もってはならない。主は救いを完成し給うた。

主は我らの身代わりに、我らを代表して十字架にかかられたということは、我らが十字架にかかったのだ。私がかかるべき十字架に、主がかかられただけでなく、私も共にそこに付けられている。神に喜ばれない一切の汚れた自我を、意志と信仰をもって十字架に付けるなら、よみがえられたキリストが私の内に生き給う。

「だれでもキリストのうちに…」(17節)とは、新創造の御業だ。一部の改善、補強ではない。根底からの造り変え、破壊と建設だ。

主によって新創造された者が、真に主のために生きることができる(15節)。献身の生涯だ。主が死んでよみがえられたのは、我らが己に対して死んで、復活の主に内に生きていただく生活をするためだ。

魂の新創造はキリストの愛の迫りによるのだ(14節)。キリスト内住の恵みを得たとき、これほどの愛の強迫がわかる。そして主を愛し主に全てを献げで生きようとする。我らもこの恵みを得て、身も魂も神に献げたい。主のために生きる者になりたい。

魂が全く新しくされたい。キリストの愛による魂の刷新を得たい。真の献身の生涯を送るとき、我らの人生は意味をもってくるのではないだろうか。