全能の神の前に
創世記17:1-8
信仰の人アブラハムも、初めから素晴らしい信仰の持ち主だったわけではない。むしろ何度も失敗した。その彼がどのようにして高められていったか。
神は彼に直接現れた(1節)。これは最高の体験だ。しかしそれまでに多くの試練があった。第一の試練は、出発においてだ(12:1)。彼の信仰の歩みは、まず分離から始まった。神は、人間的なものから分離させて、彼を信仰に立たせ給うた。彼の試練には祝福が伴った(2節)。
第二の試練は、神から再度約束が示された時だ(15:1)。彼はすでに75才になっていたが、まだ跡継ぎがなかった。約束を信じるかどうかが試みられた。神は、子孫が天の星のようになると言われ、彼は信じた。これを神は義と認められ(15:16)、彼と契約を結ばれた(15:17)。
アブラムが義と認められたのは、彼の人格・行為が立派だったからではない。彼は信仰によって義とされたのだ。見えるところは不可能でも、彼は、死人を生かし、無から有を呼び出される主を信じた(ローマ4:17,18)。神は死人を生かす力を持ち給う。イエスが復活されたのも、神が全能の力をもってなされたみわざだった(使徒2:24)。
救われるための条件は、人格や行為や知識ではなく、信仰だけだ。私たちの救いは、神の恵みによるもので、キリストの十字架の贖いと、私たちの側の信仰によるものだ(マタイ9:2、ローマ3:24)。
第三の試練は、神が契約の実行を延ばされたことだ。彼はついに不信仰になり(16:1,2)、ハガルによって子を得ようとした。神を信じないで、妻の意見に従ったのだ。その結果イシュマエルが誕生した。確かに子孫は残せるが、神を悲しませることになった。
このように、アブラムは度重なる試練の中で、何度も失敗した。失敗しながら、信仰とは何かを教えられていった。しかし、失敗を繰り返しながら、信仰が成長していったのではない。明確な転機、神に取り扱われる時があったのだ。それが本章の、全能の神の顕現だ。
86才(16:16)から99才(17:1)まで13年間、聖書は沈黙している。アブラムに神の啓示がなかったのだ。これは、彼の不信仰の結果だった。しかしここで、「我は全能の神なり。汝我が前に歩みて全かれよ」(1節文語)と、闇を破って神ご自身が顕現された。全能の神とは、十分の神、全備の神という意味だ。アブラムの失敗を赦し、忘れ、彼を新たにし、すべてを供給し、完成する神が現れてくださったのだ。暗黒は吹き払われ、臨在は回復された。
「全かれよ」と言われる完全は、人格や行為の完全ではなく、信頼の完全だ。全能の神を全く信じ、信頼するかどうかを彼に問われたのだ。彼はその場にひれ伏し、不信仰を悔い改め、従わなかった己れを献げた。“神は全能、我は無能”と空しくなって、我意を明け渡したのだ。
その時、アブラムがアブラハムに変えられた。「ハ」は神の息を表す。彼の魂に聖霊が臨まれたのだ。自分に行き詰まり、絶望して明け渡す時、神が立ち上がり給う。私を内から強め給う全能のお方によって万事をなし得るのだ(ピリ4:13)。
私たちもこの転機を迎え、いつでも全能の主に全く信頼していきたい。信じて渇いて求めるなら、主は為し給う。