受難のしもべ
イザヤ53:1-12
イエスの受難は700年前にイザヤが預言した。本章は前章13節から始まるしもべの歌だ。主は神に選ばれ、支持されたしもべだったが(52:13)、受難のしもべだった(52:14,15)。主には本来、神としての威厳、慕うべき美しさがあった。嵐を静め、死人を生き返らせ、五千人を養われた。しかし、十字架の主には何の威厳も見栄えもなかった(2節)。主は蔑(さげす)まれ、のけ者にされた(3節)。弟子のユダに裏切られ、ペテロに否定され、他の弟子たちも四散した。
「人が顔をそむけるほどさげすまれ…」とは、ツァラアトに冒された人の姿だ(レビ13:45,46)。主はエルサレムの郊外で十字架につけられた(ヘブル13:12)。
主がそこまで苦しまれたのは、我らのためだ(4節)。我らの病、我らの悲しみのため、つまり我らの罪、悩みのための苦しみだった。我らは、「神に打たれ、苦しめられた」と思ったが、実は我らのためだった。顔をそむけるほど蔑まれる者とは、ほかならぬこの自分だ(5節)。我らこそ罪のために神に忌み嫌われ、捨てられるべき者だ。
キリストはそんな私のために打たれ、苦しめられ、刺し通され、砕かれた。我らのそむきの罪、神への反逆のためだ。主は十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた。罪なき神の子が神から捨てられ給うた。捨てられるべき我らが捨てられないため、捨てられるはずのない御子が捨てられてくださったのだ。神から懲らしめられるはずのない御方が懲らしめられ、懲らしめられるべき我らに平安がもたらされた(5節)。罪のために傷つき病んだ魂に癒(いや)しが与えられたのだ。
我らは罪のうちに迷っていた(6節)。神はそのような我らを救うために、御子を世に遣わされた。御子は御旨に従順に歩まれた(7節、Ⅰペテロ2:22,23)。主の従順は徹底的なものだった。十字架の死に至るまで御心に服従された。爪の先ほどの自己主張も不平不満もなかった。父を愛し、父に絶対的に信頼しておられたからだ。愛と信頼のゆえの従順だった。
この従順のゆえに我らは救われた。我らが罪から救われ、滅びから免れるようにと、十字架の死に至るまで従われた。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、赦罪と義認が与えられた。さらに主の救いは、完全な救いで、罪の赦しのみか、一切の汚れからの聖潔(きよめ)まで与える。汚れとは、御心に従うことを欲しない自我だ。その自我を十字架につけて始末し、キリストの内住をいただいて、初めて真に従える者になる(詩篇40:8)。
我らが主のごとく神の御旨に従順に歩むこと、これが救いの目的だ。我らが主を愛し、主に信頼し、御心に従う者になること、これが贖いの目的だ。もはや自分を信ぜず、主にのみ信頼し、本心から御心を成し給えと従う、そういう魂にするために、主は十字架にかかられたのだ。そのための贖いだったのだ。
受難週はそのような者にされることを求める時だ。まず自らの姿を認めよう。そこから渇いて、約束を信じて求めよう。
主と共に多くを分かち取らせていただく者、魂を刈り取らせていただく者になりたい(12節)。主に信任され、遣わされ、恵みを証しし、救いと聖潔の福音に与らせていく者になりたい。