礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2016.02.14

新しいみわざへの期待

イザヤ43:1-7、14-21

本書の著者イザヤは、B.C.740年ごろから50年間、エルサレムで預言活動をした。政治的には、大国アッシリヤの支配下で小国ユダは一応安泰を保ち、ウジヤ王の下でソロモン以来の繁栄ぶりを見せた。しかし、宗教的にはバアル信仰が浸透し、預言者たちは堕落し、道徳的標準は低下し、飽食と不節制が蔓延した。神殿礼拝は形式化し、祭司たちは命のない礼拝を繰り返した。そのような決して容易ならぬ国情の中で、イザヤは召された(6:8)。

本書の前半(1-39章)にはおもに裁きのメッセージが、後半(40-66章)には回復のメッセージが述べられる。神は堕落したユダを見逃されない。彼らは神が憐れみをもって選び給うた神の民だ。ご自身の名誉をかけて出エジプトさせ、真の神にのみ仕えるようにと律法を与え、真実をもって荒野を導き、約束通りカナンの地に導き入れ給うた。その神の民が、神に背き偶像にかしずき、預言者・祭司たちも指導力を失う事態を見て、神は立ち上がり給う。神は侮られる方ではない。厳しく断罪し、バビロン捕囚の予告をされた。しかしどこまでも憐れみ深い神は、イスラエルを回復される。19節は捕囚からの解放の予告だ。

主は「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」(1節)と言われる。イスラエルをエジプトから贖い出し、カナンの地に導き入れ給うた神は、彼らの堕落のため、一旦彼らを異邦の国の手に渡された。しかし見捨てたのではなく、再び名を呼び、救い出し、帰還させ、わがものにすると約束される。

これは霊的に我らのことだ。我らは、神によって神のかたちに、神と交わることができる存在として創造された(創1:27)。しかし我らは罪を犯し、神のかたちは破壊され、神の御前から隠れねばならない者になった。そんな我らを神は見捨てず、御子を送られた。罪なき神の子を十字架につけられたのだ。

捨てられるはずのない神の子が、十字架の上で神から捨てられた(マタ27:46)。我らが捨てられないためだ。功なき我に、罪の赦しと義認の恵みを与え(ロマ3:24)、神から離れていた我らを回復し、神の前に立ち得る者にするためだ。

こうして神は、一度創造されたのに破壊された我らを、キリストの十字架によってもう一度創造し直された。我らをご自分の所有とするためだ。さらに神は、我らのうちに新しき事をなすと約束される。荒野に道を、荒地に川を流れさせるという新創造のみわざの約束だ。

荒野、荒地とは我らの魂のことだ。救われた魂は、やがて自分の真相に気がつく。妬み深く、蔑む心で満ち、人の前にうわべを繕うことにきゅうきゅうとする。本質は自己中心だ。本当は主を愛せない自分、実は従いたくない肉、その時の調子によって上がったり下がったりする己に気がつく。魂の根底に巣食う自我だ(ガラ5:19-21)。実を結ばない不毛の荒野、乾ききった砂漠のような魂だ。

神はそんな魂に新しいみわざを起こすと、魂の新創造を約束される。古き人を十字架につけ(ガラ5:24)、キリスト内住の恵みをいただいて(ガラ2:19,20)、信仰によって生きる者にすると言われるのだ。このような魂になって、初めて神は「汝は我がものなり」と信任し給う。

18節に、先の事、昔の事を考えるなと警告されている。救われる以前の事を慕うな、聖潔(きよめ)を知る前のほうが楽だったと後退するなということだ。絶えず体を前に伸ばして、上にあるもの、高い標準を追い求めよと言われる。

わが内に新しいみわざを切望しよう。主はなし給う。「われ行わば誰かとどむること得んや」(13節文)とあるように、主は真実だ。また家庭の中に新しいみわざを、この教会にも新しい事を期待していこう。日本のリバイバルを求めて、ビジョンを掲げて進んでいこう。

我らが贖われたのは、主の栄誉を宣べ伝えるためだ(21節)。主が我ら一人一人を、この教会を、ご自身の栄光のために用い給わんことを!