主の家に住む幸い
詩篇84:1-12
この詩篇は、2つの「セラ」(休止)で三分される。1~4節は神殿を慕う言葉、5~7節は神殿に詣でる者の幸福、8~12節は祈りと信仰告白だ。
「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう」(1節)に、神殿を慕う気持ちがこめられている。この作者は、魂が主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりに、神の住まいを慕った。神殿を教会に置き換えるなら、我らの教会に対する思いはどれほどかを探られる。
「…あなたの祭壇のかたわらに、わがすまいを得させてください」というのが3節の口語訳で、意訳ではあるが名訳だ。祭壇とは礼拝と祈りだ。主の家に住み、祭壇の傍で絶えず祈り、礼拝し、主を賛美する(4節)ということほどの幸いはない。
昔、神殿の庭にはユダヤ人しか入れなかった。しかも聖所には祭司しか入れなかった。しかし今や、我らは、はばからず神の前に出、主の家に住む者となった。イエスの十字架の血のゆえだ。
我らは、かつては罪と罪過の中に死んでいた者で、神なく望みなくさまよっていた異邦人だった。それが、キリストの十字架の贖いにより、罪の赦しをいただき、引き上げられてキリストと共に天の処に座する者に、また近づけられて、はばからず至聖所に入る者になった。こうして我らは主の家に住む者になった。内住のキリストをいただいて、主の宮で、霊のふるまいに満足する者になったのだ。
涙の谷、嘆きの谷、悲しみと暗黒の地を通らなければならない時もある。しかし、主の家に住む者は、どんな地をも泉のわく所、穀物を実らせる肥沃な土地に変えることができる。困難や試練がなくなるのではない。信仰によってそれらに勝つことができるのだ。
パウロは、「患難さえも喜んでいます」(ロマ5:3)と言った。また「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ4:13)と言った。主の家に住む恵みをいただいた者が、そういう勝利の歩みをすることができるのだ。我らもそういう歩みをしたい。荒野を泉に変える歩みをしたい。主の家に住む恵みを熱心に求めよう。
救われた魂は、主の大庭にいる一日は千日にまさる(10節)と思うはずだ。これが逆になり、教会で礼拝し、学び、奉仕し、交わる一日より、家でくつろぎ、仕事に熱中し、この世の人と歓談する千日のほうが気楽、楽しい、価値がある…とするなら、最初の救いを疑ってよい。
主の家、主の大庭とは、場所的な教会だけではない。主を礼拝し、愛し、仕えようとする所は、どこでも主の家だ。要は、いつでも、どこでも、どういう姿勢で主に従っているかということだ。
世の終りは確実に近づいている。キリストの再臨は近い。この終末の時代、心熱くして主を愛し、主に信頼してみ言葉に従っていこう。