インマヌエルの神
マタイ1:18-25
一見華やかなクリスマス・ストーリーには、喜びだけではなく、沈痛な、胸の裂かれる記事がある。そこにはどれほどの犠牲が払われているだろうか。
1.神の犠牲
ヨハネの福音書3章16節の「ほどに」に、父が御子を世に遣わされたお心が伺える。アブラハムは神の命(めい)に従ってイサクを献げた(創22:)。アブラハムは神の姿だ。神はご自分の独り子を十字架に献げ給うた。私たちが罪から救われるためだった。
2.御子の犠牲
唯々諾々(いいだくだく)祭壇の薪(たきぎ)の上に乗ったイサクも従順だった。イエスは命(めい)を受けて、従順に従ってこの世に遣わされて来られた。神と等しい御子が、神の栄光を捨てて私たちの所に、私たちと同じ人間となって来られた。その最後は十字架だった。父の御旨に従ってのことで、そのお姿は徹底的な従順だった。
3.マリヤの犠牲
「私は主のはしためです」(ルカ1:38)とマリヤは従った。自分の人生が左右される一大事だ。お言葉どおりこの身になったら、自分の立場がどうなるか知らないはずはなかったが、彼女は一切を捨てて御言葉に従った。どれほどの犠牲だったか。
4.ヨセフの犠牲
マリヤが「…身重になったことが」ヨセフに「わかった」(18節)この発見はヨセフにとって大きなショックだった。彼は断腸の思いだったろう。「正しい人であって」(19節)は、「正しい人であったが」が原意に沿っている。彼は律法に忠実な人だった。それなら当然、律法に従って彼女を処罰すべきだった。しかし彼女のことを公然にしたくなかった。彼女への愛からだ。
愛が深いだけに悩みも大きい。彼は離縁を決意したが、マリヤは死を免れない。彼は祈った。神の助け以外に救いはなかった。そこへ神の御声がかかった(20,21節)。彼はマリヤを妻に迎えた(24節)。ここに、マリヤに劣らぬヨセフの従順がある。彼は、全てにおいて善にして善を成し給う主(詩119:68口語訳)に信頼して、マリヤを迎えたのだ。
神が「ご自分の民」(21節)と言われるこの私たちは、罪にまみれ、滅びゆく者だった。そんな私たちを、神は「我がものなり」(イザ43:1文)と言いたいと願い給う。そこに必要なのが贖いだ。神が断腸の思いをし、御子が栄光を捨てて十字架にかかられたのも、マリヤ、ヨセフの犠牲が払われたのも、私たちが贖われて神のものとなるためだ。赦罪と義認だけでなく、聖潔(きよめ)の恵みにまで至らせる全き贖いだ。
「インマヌエル」(23節)はイエスの別の名で、「神は私たちとともにおられる」という意味だ。それは漠然とした感覚ではない。内にキリストをお宿しして、臨在の神が明確になる。ここまでされて、初めて神のものと言える。罪を悔い改めて十字架を信じよう。そして救いの恵みをいただこう。さらに、古き人を十字架に付け、内住のキリストをいただこう。インマヌエルの神をいただいて、「神われらと共にいます」(23節口語訳)との信仰に立たせていただこう。
「その名はインマヌエル」。主は、求める者、従順な者に、共に在す神の恵みを与え給う。従うと言う以上は、徹底的に従おう。“まだ恵みをいただいていないから、従順になれない”と言ってはならない。主は、従順な者になりたいと欲する者をかろしめ給わない。
従うためには犠牲が伴う。しかし、それでも従おうとする者にインマヌエルの主の恵みが与えられる。