お言葉どおりこの身に
ルカ1:26-38
マリヤヘの受胎告知の場面だ。御使いは「おめでとう、恵まれた方…」とマリヤに言った(28節)。なぜ彼女が恵まれた人なのか。それは、ダビデ家出身のヨセフと婚約していたからではなく、「神から恵みを受けた」(30節)から、つまり、彼女が救い主の母となる約束が与えられたからだ(31-33節)。「父ダビデの王位」とは救い主を指す(2サム7:12-14a)。
彼女は「どうしてそのようなことになりえましょう」(34節)と言った。彼女の驚きは無理もなかった。未婚の自分が母になると言われたのだ。率直な疑問だった。
祭司ザカリヤは、「私は何によってそれを知ることができましょうか」(18節)と反問して裁かれた。祭司たる者の不信仰への当然の裁きだった。しかし、一介の田舎娘の素朴な疑問には、これも当然ながらお咎(とが)めなしだった。
惑う彼女に、「神にとって不可能なことは一つもありません」(37節)と、神の大能が告げられた。不妊の女と言われたエリサベツも子を宿していたのだ。この言葉がマリヤを信仰に立たしめた。「ほんとうに、私は主のはしためです…」(38節)と彼女はひれ伏した。
ここに、第一に彼女の謙遜を見る。「ほんとうに、私は主のはしためです」(38節)と言った。大能の神の前に、自分は無に等しい奴隷女だとへりくだったのだ。神の前に全く無になったところに神の大能は働く。“これだけは手放せない”と自分を握っている間は、神は大能を働かせることがおできにならない。“私はゼロです”と本気で申し上げるとき、神はその大能を働かせ給う。
第二に、彼女の従順を見る。彼女は「あなたのおことばどおりこの身に…」と言った。主のみ言葉に服従したのだ。お言葉どおり身になれば、危険が及ぶ。ヨセフの愛を失い、世間の信用を失い、自分のいのちを失うことになることは、彼女にも予想できた。そして、主に従うことより、それらのものを保つほうを選ぶこともできただろう。しかし、彼女は主に従うほうを取った。それが、神が望み給うことだとわかったからだ。これが彼女の信仰だった。従順は信仰から来る。信じるから従える。信仰による従順だ。
「あなたのおことばどおりこの身に…」とは、主のみ言葉への服従の姿だ。真の自由はみ言葉への服従から始まる(ヨハ8:31,32,36)。従う魂に祝福がある。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします…」(詩40:8)とあるが、マリヤが恵まれた女だった理由は、この信仰の故だった。へりくだって従ったから、恵まれた女だったのだ。
我らも従う者になりたい。恵まれた者になりたい。わが内に従えない自分、神を第一とできない自己中心の自我があることに気がついたなら、十字架のもとに行こう。そこに解決がある。わがための十字架であり、かつ我も共に付けられている十字架だ。十字架によって己に死んだ魂に、キリストが内住し給う。
主は、我らを従順な者にするために我らを贖い給うた。「あなたのおことばどおりこの身に…」がわが生き方となるように、恵みを求めていこう。クリスマスは、「私は主のはしためです」と言いうる魂になることを求める時、またそこから出発する時だ。