主の御言葉の真実
ルカ1:5-25
アドベントはクリスマスを待ち望む時だ。6世紀頃にクリスマスが守られるようになると、ローマ教会において、クリスマスの準備の時として、11月30日に最も近い主日からアドベントが始まるとされ、8世紀からは、教会暦の1年の初めの時とされるようになった。アドベントには“来臨”の意味もある。イエスの受肉来臨を迎える心の準備は、再臨の準備の時でもある。静かにクリスマスを待ち望みたい。
主の降誕に先立って、パブテスマのヨハネの誕生があった。主は処女からお生まれになったが、ヨハネは不妊の女から生まれた。父ザカリヤ、母エリサベツは、神の前に正しい人だったが、子がなかった。彼らはいかに肩身の狭い思いをしたか。
祭司ザカリヤは、その年、聖所の務めに当たった。毎朝、民を代表して祈りの香をたくのだ。その彼に御使いガブリエルが現れ、願いが聞かれたと告げた。彼は何を祈っていたのか。子が与えられることではないだろう。それは、祭司の公の祈りではあり得ないからだ。民を代表しての公的な祈りは、救い主待望だったはずだ。
メシヤ来臨は、かねてからの預言であり、民の切望だった。彼らは、ローマに支配されることによる屈辱感と貧困からの解放を求めていた。ザカリヤは、その救い主の先駆者が我が身から…と聞かされたのだ。彼はこれが信じられなかったのだ。公的には救い主を待望しながら、我が身に直接関係するとなると信じられない。信仰がそこまで働かなかったのだ。
信仰は意識的に、生活の場で働かせるものだ。何を信じるのか。御言葉の真実を信じるのだ。主の言葉は必ず成る(20節、イザ55:11)。これを信じるのが信仰だ。
ザカリヤは裁かれた。口が利けなくなった。民のために神に仕えるプロの祭司の不信の罪は重い。ただ、その裁きは、ヨハネが誕生するまでのことだった。ヨハネと命名したとき、口が利けるようになった(1:64)。信仰が回復したとき、主は憐れみを与え給う。主は真実だ(エレ31:3)。
キリストは我らのために十字架にかかられた。神の我らへの愛は、独り子を賜うほどだった。主は「事畢(ことおわ)りぬ」と、十字架の上で我らの救いを完成された。我らを完全にご自身のものとするためだ。まず救いの恵みをいただきたい。認罪-悔い改め-十字架信仰の手順を踏んで、罪の赦しと義認の恵みをいただきたい。
さらに聖潔の恵みをいただきたい。救われてもなお神に喜ばれない一物がわかるか。自己中心、我が儘、傲慢、妬み深さ、愛の無さ…。何が何でも自分の考えを押し通したい、誰が何と言おうと自分の主義主張を決して取り下げない強情さ…。クリスチャンと言いながら、こういうものを振りまいて憚らない。
この自分の内側の問題をそのままにして、うわべだけ繕っても、真の満足、喜び、平安はない。いい加減にけりをつけなければならない。どこでけりをつけるのか。十字架以外にない。意志と信仰をもってキリストの十字架に付けるのだ(ガラ5:24)。信仰による自我の始末だ。そこにキリスト内住の恵みが与えられる(ガラ2:20)。そこから、キリストの如くいつも御心にのみ従う歩みが始まる。
自我の始末を十字架でつけて、キリスト内住の恵みをいただきたい。そして、キリストのように、いつも御心にのみ従う歩みをしたい。そのようになし給うは、主の御旨の約束だ(1テサ5:24)。
主の言葉は変わらない。御言葉に立った信仰は強い。サタンは様々な現状を見せて失望させようとしてくる。しかし、こちらが信仰に立っていれば大丈夫だ。
信じない者にならないで、信じる者になろう。アドベントは出発、前進の時だ。主の御言の真実に信頼して、前進しよう。