賛美が絶えない歩み
詩篇34:1-22
神への賛美にあふれたこの詩篇が、どんな時、どんな状況の中で歌われたかが、表題からわかる(1サム21:10-15)。
ダビデはサウルに追われ、ガテの王アキシュのもとに逃れた。サウルは、サムエルから油注がれたイスラエル初代の王だったが、傲慢と肉欲のため失脚した(1サム13章、15章)。主から捨てられ、悪霊に悩まされるようになった彼は、牧童ダビデの竪琴で慰められた。
すでにサムエルから油を注がれていたダビデは、ペリシテの巨人ゴリヤテを倒し、人気を博した(同17章)が、それによって主君サウルの妬みを買い、命まで狙われ、逃亡生活を余儀なくされた。
ペリシテ人にとってダビデは宿敵であり、しかもゴリヤテを殺された恨みをもっていた。後ろにはサウルの追跡が迫り、前には宿敵が立ちはだかるというせっぱ詰った中で、彼は狂気を装うことによって逃れるほかはなかった。かろうじて命を全うした彼は、アドラムの洞穴に隠れた(同22章)。これが本篇の背景だ。
本篇から教えられることがいくつかある。
1.神への賛美(1-3節) ダビデは力のかぎり主をほめたたえた。「あらゆる時に」(1節)主を賛美する、というのが彼の信仰だった。置かれた状況は苦しみの極みだ。死ぬか生きるかの瀬戸際だ。しかも敵の前で狂気を装わなければならない。しかし、この逆境の中で、彼は主をほめたたえた。
「主を誇る」(2節)とは、主の勝利を自分の勝利のように自慢することだ。ダビデは、それほどに主の勝利を我がものとしていたのだ。彼は、一緒にほめようと招く(3節)。この招きによって、いかなる苦境にある人も、彼と共に賛美できる。
2.神を賛美することができる理由 それは、主は聞かれるから(4,6,17節)であり、また、全き救いを与えられるからだ。主は全ての恐れから(4節)、悩み苦しみから(6,17,19節)助け出される。物理的に救出し給うだけではない。全き救いとは罪の赦しと聖潔だ。過去の罪からの救いと現在の汚れからの聖潔、十字架による全き贖いだ。
さらに、もう一つの理由は、主は満たしてくださるからだ(9,10節)。ダビデほど乏しい者はなかった。主君から命を求められ、敵の中にしか安住の地を見いだせない。洞穴まで従った家来は、ならず者どもばかりだった。決して良き物に満たされてはいなかった。しかし、全ての事に満足する心を主から与えられていた(ピリ4:13)。祈りを聞き、全き救いを成し、満ち足らせ給う神を、彼は体験に基づいて確信していた。だからこの主をほめたたえることができた。これがクリスチャンの姿だ。
3.神を賛美する者の条件 それは、主に求める者(4節)、主を仰ぎ見る者(5節)、主に呼ばわる者(6節)、主を恐れる者(7節)、⑤主により頼む者(8節)。⑥心の打ち砕かれた者(18節)。⑦主のしもべ(22節)だ。
我らもこういう魂にしていただきたい。これがクリスチャンの歩みだ。何と力強い、確信に満ちた生き方か。自我が十字架に付けられ、キリスト内住の恵みをいただいて、このような生涯を送りたい。