光の中を歩む者
Ⅰヨハネ1:1-10
本書のテーマは神との交わりだ。それは、創造の初めにエデンの園で人類が持っていたものだ。人は神のかたち、つまり、神からの語りかけに応答し得る者として創造された。しかし、罪によって神のかたちは破壊され、人は神の顔を避けなければならない者になった。神との交わりは破られた。救いとは、この神との交わりの回復だ。
神には一点の暗いところもない(5節)。義と公正と公平のみを持ち給う神だ。神が光の中にいますことと、我らが光の中を歩くこと(7節)の間には大きな差がある。我らは光とは程遠い、不義、不正、不公平に満ちた暗黒の存在だ。神と交わりを持つなどとんでもないことだ(2コリ6:14)。
しかし、そんな我らが、神と交わりを持って光の中を歩くことができると、神は約束された。神は、我らとの交わりを回復するために、御子をこの世に遣わし、我らのほうから断ち切った交わりを、十字架の贖いをもって回復しようとされた。
罪を知らない御方が、極悪人のようにして十字架にかかり、血を流された(7節)。この7節を境として、7節以前では「交わり」が、以後では「罪」が多く使われている。「交わり」と「罪」は正反対だ。その間に「御子イエスの血」がある。神との交わりを妨げているのは罪であり、それを取り除くのがキリストの血だ。
神は、神から離れた我らを、もう一度ご自身との交わりに回復したいと願い、御子を十字架につけ給うた。主は、何の功(いさお)もなかった我らのために血を流された。我らがなすべきことは、み言葉の光、メッセージの光に従うことだ。そうすれば、必ず悔い改めと信仰に導かれる(9節)。
真実で正しい神は、我らの悔い改めた罪を、お情けで赦すのではなく、正当的に手続きが取られての赦罪だ。その手続きが御子イエスの十字架だ(7節)。血に対する信仰、十字架信仰だ。罪の悔い改めと十字架信仰によって、我らは誰でも救われるのだ。光の中を歩くために、まずこの救いの恵みをいただきたい。クリスチャンといえども確信がないなら、悔い改めと信仰がはっきりとさせられたい。
しかし、救いの確信があっても、まだ光の中を歩いているとは思えない、というところに気づくか。わがまま、自分中心、み言葉よりも我意を優先させたい…という自分の醜さに気がつくか。妬み深く、すね、すぐ不機嫌になる…という己の姿がわかるか。あれでもクリスチャンかと言われても仕方がないような、証しが立たない自分の生活ぶりに目がとまらないか。
そういう自分の姿を認めるところから、次の段階へと進む。こんな私ですと認め、砕かれた悔いた魂で主の前に出よう。真実な神は、砕かれて出てきた魂を、御子の血で潔め給う。キリストの十字架に自我をつけて、内住のキリストをいただきたい。キリストの血は、罪の赦しのみか、汚れからの聖潔(きよめ)まで与える血潮だ。救いと聖潔をいただいて、神との交わりが完全に回復される。そして、光の中を歩む者になる。
それは、①神のみ心に従った歩み(詩40:8)、②平安に満ちた歩み(ヨハ14:27)、③希望にあふれた歩み(ロマ5:3-5)、④勝利の歩み(ヨハ16:33、ロマ8:37)だ。御心への従順と平安と希望と勝利、これらはキリストの血潮が与えるものだ。そして、行き着くところは再臨の主の前だ。その主から「善かつ忠なる僕」と言っていただきたい。そのような光の中を歩む者にしていただきたい。