礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.10.18

善かつ忠なる僕

マタイ25:14-30

天の御国に関するタラントのたとえだ。主人が旅に出るとき、三人のしもべに五タラント、二タラント、一タラントと財産を預けた。五タラント、二タラントを預かったしもべは、それで商売をして、それぞれ倍に増やし、主人から賞賛された。しかし、一タラントを預かったしもべは、そのままにしておいて、主人から叱責された。彼の決定的な過ちは、愛と真実に富む主人を理解していなかったことだ(24節)。

このたとえは、我らが賜物をどう生かすかということの教訓だ。タラントとは、才能、または才能ある人と訳される言葉だ。神は我らに、「おのおのその能力に応じて」(15節)タラントを預けておられる。我らをよくご存じの神は、一律ではなく、分に応じて賜物を与えておられる。だから、自慢することもひがむことも不要だ。

最初の一タラントは、全ての者に提供された賜物、すなわち救いの恵みだ。これは無償、無条件で与えられたものだ。ただ罪を認め、神の前に悔い改め、キリストの十字架を信じる信仰によって、我らに与えられた恵みだ。まず、この1タラントを自分のものにしたい。せっかくの恵みを無駄にしないようにしたい。

クリスチャンであっても、救いを確認すべきだ。義認がはっきりしているか、点検をすべきだ。永遠のいのちに関わる問題だから、うやむやにしてはならない。

けれども、いつまでも一タラントで満足してはならない。神は我らと清算される(19節)。我らが神の御前に出るときが来るのだ。そのとき、神は我らのどこを見られるだろうか。何を清算されるのだろうか。いかに忠実だったか、という点で清算されるのだ。

たとえの中の主人は、五タラントを預けた者にも、二タラントの者にも「わずかな物に忠実だったから…」と言った。賜物には五、二、一と比較するほどの相違がある。しかし、主人のほめ言葉は、「善かつ忠なる僕」(21,23節文語訳)だ。主人の目から見れば、それぐらいの差は何でもない。主人の目の付け所は、忠実だったか否かなのだ。

神が見られるのは、我らがどれだけ成功を収めたか、どれだけ頑張ったか、どれだけそつなくできたか…ではない。どれだけ真実に従ったかだ。真の忠実とは、どんな小事にも忠実なことだ。大事には忠実だが、小事にはいい加減というのでは、忠実とは言えない。

真に忠実な魂は成長する。結実がある。その実は、①御霊の実(ガラ5:22,23)であり、②伝道の実(ヨハ15:16)だ。

やがて主は戻って来られる。我らは、再臨のキリストの前で清算される時が来る。我らが預かっているタラントはどうなっているか。主から「善かつ忠なる僕」と言われる者になりたい。主に信任される魂になりたい。

「たくさんの物を任せよう」(21,23節)と、主から信任されて、御国の財産の管理者にしていただこう。ただし、そこでも必要なものは謙遜だ。「我らは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」(口語訳では「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」)(ルカ17:10)と言って、主の前にひれ伏そう。