礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.09.20

ただこの一事を務む

ピリピ3:1-16

本章のキーワードである「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ…」(8節)は、口語訳では「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」だ。この価値は礼拝の場で得ることができる。主を知る価値は、み言葉によって示される。だから礼拝が大切なのだ。礼拝は我らの命だ。昔の聖徒は命がけで礼拝を守った。

3節に真の礼拝者の姿が示されている。真の礼拝者とは、第一に「神の御霊によって礼拝を」する者だ。形式的、儀礼的な礼拝ではなく、死んだ偶像を礼拝するのではなく、聖霊によって、生きて働き給う主を礼拝するのだ。神は霊なるお方だから、こちらも神の御霊によって礼拝するのだ(ヨハ4:24)。

第二に、「キリスト・イエスを誇」る者だ。熱心な自分や忠実な自分を誇るのではない。キリストご自身を喜びとするのだ。学歴、人生経験、成功実績などではなく、キリストを誇るのだ。私を愛し、私のためにご自身を十字架上にお献げになった主を誇るのだ。

第三に「人間的なものを頼みにしない」者だ。自分の力に依り頼まず、肉には信頼を置かず、ただイエスのみに信頼するのだ。自己不信頼と神への絶対的信頼だ。こういう礼拝の中で主を知ることのすばらしさ、知識の価値の絶大さを知ることができる。

パウロは長年その価値を知らなかった。彼はかつては人間的なものを頼みとしていた(4-6節)。しかし復活の主に出会って、彼の誇りとしていた一切が崩壊した。彼は価値観の大転換を経験した(8節)。その新しい価値は、有益だった一切をちりあくたと思わせるほど絶大だった。それは、キリストを得ること(8節)、つまり主の死とよみがえりに合わせられという恵みのことだった(10節)。

キリストの贖いは、不義そのものであった者を血潮をもって義とするばかりでなく、自我の塊のような者を血潮をもって潔めるものだ。古き人の始末と、キリストの内住を与える全き贖いだ。この恵みが、他の一切をちりあくたとして捨てさせる絶大な価値を持っている。

なぜなら、キリストを得るとは、キリストのごとくなることだからだ。キリストがいつもただ御旨にのみ従われたように、また、キリストが十字架の死に至るまで従順であられたように、我らもそのごとくなれるのだ。だから絶大な価値だ。もっとも、それほど価値を認めないならそれまでだが、謙虚に真摯に求めるなら、この絶大な価値が我がものになる。

「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(13節)とパウロは言う。後のものを忘れるとは、今までの神の恵みを忘れるのではなく、かつて価値を置いてきたもの、人間的なものへの信頼、肉の頼みときっぱりと決別することだ。前のものとは、神が我らのために備え給う上よりの栄冠だ(14節)。再臨の日に主と同じ栄光の姿に変えられる希望、すなわち栄化の望みだ。これをひたすら求めていくのだ。そのために、内住のキリストを確実にいただきたい。

前のものを求めて、ひたむきに走り続けたい(詩篇27:4)。「唯この一事を務む」(文語)とあるように、他のものに見向きもしないという姿勢で追求したい。そのためにはどんな犠牲もいとわないという覚悟が必要だ。犠牲を払うことを惜しむなら、絶大な価値を知らずに終わってしまう。

神は御子の十字架の贖いによって、この新しい価値を我らに示された。まことの礼拝者として御前に出て、この御方をいただく一事のために前進しよう。