良いものを堅く守れ
1テサロニケ5:1-28
新約聖書にあるパウロの13通の手紙の中で、本書が最も早く書かれた。テサロニケ教会は、第二回伝道旅行でパウロの宣教によって生み出された教会で、すばらしい教会だったが、再臨観において問題があった。彼らのうちのある者たちは、パウロの教えを誤解・曲解していたのだ。そういう事情から、本書の内容は自ずとキリストの再臨が中心になる。
キリストは約2000年前に来臨し、十字架-復活-昇天を経て、今も生き給う。そしてやがて再び来たり給う(4:16,17)。いつかは分からないが、その日は近い。その日は、信じない者、受け入れない者には滅びを意味するが、待ち望む者には希望の日だ。
神は、我らを怒りに合わせようと定められたのではなく、キリストによる救い(=身体の贖い)を得るようにと定められた(9節)。我らがキリストと同じ栄光の姿に変えられるという希望を与えられたのだ。キリストが死なれたのは、我らを罪から救い、汚れから聖め、肉体を贖うためだった。これを与えるのがキリストの十字架と復活の福音だ。
平和の神は、我らを全く聖(きよ)め給う(24節)。これは約束だ。我らが聖なる御方キリストによって、その聖きにあずからせられ、キリストの如くなれるのだ。キリストが常に御父の聖意に従われたように、また主がいつも御父に信頼されたように(ヨハ5:19、8:28,29、ピリ2:6-8)、我らもそのように歩めるのだ。キリストの内住を得ることによって、それが可能なのだ。
「いつも喜んでいなさい…」(16-18節)とある。愛唱聖句としている人も多いが、現実にそう歩んでいるかと問われると、首を縦には振れない。調子が悪くなれば喜びは消え、困難な状況の中で祈りもせずに愚痴をこぼし、無視されたと言っては不平を言う。あれでもクリスチャンかと言われても仕方がない歩みだ。肉だからだ。
しかし、御子の血を流させてまで我らを愛し給う真実な神は、我らを全く聖め給う(23節)。「彼この事を成したまわん」(24節元訳)というこの事とは、我らを全く聖めることだ。主は、我らを御前に完全な者として立たせ給う。これを真実な神は成し給う。
まず救いの恵みをいただきたい。罪を悔い改め、キリストの十字架を信じて、罪の赦しをいただきたい。それがスタートだ。そして、そこから聖潔(きよめ)の恵みを求めていきたい。自らの醜い姿を認めるところから始まる。そこから十字架を見上げるのだ。信仰をもって十字架に古き人が共に付けられていると受けとめ、信仰によってキリスト内住の恵みをいただくのだ。
21節に「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」とある。我らのまわりには、良いと思えるものが多くある。しかし、「ほんとうに良いもの」は多くはない。イエスはマルタにどうしても必要なことは一つだけだと言われた(ルカ10:42)。真に良きものとは、神が我らにどうしても与えたいと願っておられる全き救いだ。キリストの十字架を通して、渇き、信じ、従う者に与え給う。
神の真実に信頼しよう。神に期待しよう。神は我らの期待を裏切ることはなさらない。期待すれば、神は更に真実を現し給う。