ただイエスおひとりだけ
マタイ17:1-8
イエスはペテロから、「あなたは、生ける神の御子キリストです」との信仰告白を聞かれ(16:16)、受難の予告を開始され(同21)、「だれでもわたしについて来たいと思うなら…」(同24)と、主に従うことの大切さを示された。
その6日後、主はペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られ、祈りのうちに(ルカ9:29)変貌された。御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。これは復活後のお姿であり、御子が初めから持っておられた神としての栄光のお姿だ。
そのとき、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期について」(ルカ9:31)、つまりイエスの十字架について対話した。モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表だ。いずれも十字架に密接な関係があった。
律法では完成されなかった救いが、十字架で成し遂げられた(使徒13:38,39)。また、旧約の預言は十字架をさしていた(イザ53:5,7)。主の十字架の贖いは、律法と預言の完成だ。
ペテロは訳が分からないまま、感動して小屋の建設を提案した。主を絶賛したつもりだが、無意味なことだった。つい6日前、主の十字架予告を否定して、主から叱られたばかりだが(16:22,23)、彼はまだその延長線上にいた。こんな素晴らしい栄光があるのだから十字架は必要ない、と思ったのだ。彼は何も分かっていなかった。
光り輝く雲が現れ、雲の中から「これは、わたしの愛する子…」(5節)との声があった。イエスは神の愛し給う独り子だった。その御子を神は十字架につけ給うた。主の十字架は神の御心だった。
十字架で罪なき御子が神から断絶されることによって、神から捨てられるべき我らが救われた。この十字架は、罪の赦しだけにとどまらず、救われたクリスチャンを悩ませる自我をも始末し、キリスト内住の恵みまで与える全き救いをもたらす。この救いと聖潔(きよめ)の二重の贖いによって、我らの生涯は変貌される。
我らの生きる基準、目標は何か。何を愛して生きているか。イエスが基準、目標、最高の愛の対象でありたい。それが十字架によって変貌された者の生き方だ。そして、この変貌を与えるのが、「彼の言うことを聞きなさい」(5節)と神が証言されたイエスだ。我らが聞き従うべきは十字架の主、赦罪と聖潔の全き救いの与え主だ。
弟子たちが目を挙げると、イエス一人の他は誰も見えなかった。モーセもエリヤも栄光も雲も声も消え、ただイエスだけがおられた。我らが見るべきは十字架のイエスだけだ。他のものは、いかに目を引く素晴らしいものでも、イエス以上のものではない。全き救いを得させる十字架と復活のイエスのみに目を留めよう。
我らも変貌させられたい。全く新しく造り変えられたい(Ⅱコリ5:17)。新創造の御業はキリストが成し給う。ただ主のもとへ行きたい。栄光に輝いた生涯は、そこから始められる。この栄光は内側から輝き出す主の栄光だ。そして、将来に約束されている栄光へとつながる(コロ1:27)。
罪や自我が暗い影を落とす生涯、罪や自我で灰色にくすんだ生涯ではなく、内にいます主によって、栄光に輝く生涯を送りたい。