イエスから目を離さないで
ヘブル12:1-13
我らの歩みは信仰に基づいている。イエスを目当てに歩む歩みだ。信仰による歩みこそ我らの基本的な姿勢だ。
我らの信仰は二面ある。①成し遂げられた贖いのみわざへの信仰と、②従っていくうえで持つべき全能の神への信仰だ。
1.贖いのみわざを信じる。
我らの贖いは、イエスの血に基づいている(10:19)。罪なき神の子が十字架にかかり、我らの罪のために贖いの死を遂げられた。我らは、悔い改めと信仰により、過去の罪の精算をいただいた。罪の赦しのみか、義認の恵みまでいただいた。
さらに、肉の汚れからの聖潔(きよめ)も備えられている。自我の磔殺(たくさつ)とキリストの内住により、我らは全く聖くされるのだ。我らは、自己の真相がどれだけ分かっているか。自分の姿が分かったら、絶望するしかない。そこから十字架を仰ぐのだ。そこに古き人が共に付けられている十字架を仰ぐなら、信仰によってキリストが内住される。
すでに成し遂げられた贖いのみわざだ。あとはこちらが信じるか否かだ。我らの信仰の土台は、キリストの血への信仰だ。
「信仰の創始者」とは、リーダー、先駆者、基礎を置く者…という意味を持つ語だ。主は十字架の全き贖いをもって、我らの信仰を始め給うた。十字架の主を仰いで、救いの恵みをいただきたい。そこから新しい歩みが始まる。さらに、十字架の主を仰いで、聖潔の恵みをいただきたい。そこから真に勝利ある信仰生涯が始まる。
2.全能の神を信じる。
「完成者」とは、完成する者、我らの信仰を仕上げ給う御方ということだ。我らの信仰は、全能の神、成し給う主を信じる信仰によって完成される。
アブラハムは、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ロマ4:17)を信じた。また「望みえないときに望みを抱いて信じ」(同18)た。変貌山(へんぼうざん)から下りて来られた主は、悪霊に憑(つ)かれた子を持つ父親に、「信じる者には、どんなことでもできるのです」(マル9:23)と言われた。人間的には絶望状態でも、主にはできると信じる信仰を与え給うお方は主イエスだけだ。このイエスから目を離さないで、仰ぎ見つつ走れと本書の筆者は言う。
「目を離さないで」とは、目を釘付けにして、視線を固定して、目を逸らせないでという意味だ。目先の現実に目を奪われず、先を進み給うイエスに目を留めて従っていくのだ。そのために必要なものは忍耐だ(1節)。不信仰の罪は足にまとわりついてくる。信仰をもって走り出そうとすると、まとわりつき、様々な現実を見せつけて、歩調を鈍くしようとしてくるが、忍耐して、主に目を注いで従っていきたい。
「前に置かれている競走」、つまり我らが参加しなければならない競走を完走できるように、①雲のように取り巻く証人が(1節)、②先導者イエスが(3節)、③訓練が(5-11節)備えられている。だから、祈りの姿勢を正し、主の前に座り直そう(12節)。
神は我らの信仰を試し給う。イエスから目を離さないで、仰ぎ見て進むかどうかを見給う。現実がどうであれ、成し給う主に目を留めて進もう。難攻不落の要塞(ようさい)エリコを前にして、ヨシュアは悩んだが(ヨシ5章)、主の軍の将の前に靴を脱いだとき、エリコ攻略の方法が示された(ヨシ6章)。我らの前にも大きなエリコが立ちはだかるかもしれない。個々人がイエスを仰ぎ見る信仰に立ちたい。そして教会全体が信仰の一致をもって当ろう。主は勝利される。