みわざを成し給う主
ヨハネ6:1-14
イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たされた。過越の祭が間近な時、イエスは目を上げ、群衆をご覧になって深く憐れまれた。彼らは主の恵みを求めて、熱心に、飢え渇いて主のもとに集まってきた。
主はピリポに「どこからパンを買って来て…」(5節)と、彼の信仰を試そうとして尋ねられた。主はご自分では何をしようとしておられるかご承知だった。彼が何を信じているか、どれだけ信じているかを見ようとされたのだ。
彼は「二百デナリのパンでは足りません」(7節)と答えた。ごく常識的な答えだ。男だけで五千人、女性・子どもも合わせて一万人以上の数を見れば、食料調達は無理だ。しかし、それは信仰による応答ではなかった。
アンデレは、少年の差し出した五つのパンと二匹の魚について、「こんなに大ぜいの人々では…」(9節)と、消極的、否定的な意見だ。少年のパンと魚は、主への精一杯の愛だったのだが、弟子たちは、そんなものが何になるかと鼻であしらった。マタイでは「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません」(マタ14:17)とある。
ここに彼らの問題点が浮き彫りになっている。第一に、彼らは現実しか見ていない。多くの群衆とわずかの食料という、動かしがたい、絶望的な現実にのみ目を奪われている。第二に、共におられるお方が、水をぶどう酒にお変えになった全能のイエスであることを忘れている。第三に、少年の単純で純粋な愛を無視している。現実にのみ目を奪われ、主を見失うと、消極的、否定的な結論しか出せない。そして、単純に主を信じ、純粋に主を愛そうとする人の足を引っ張る。
主は弟子たちの信仰を見ようとされたが、彼らの信仰は結局その程度だった。信仰と言えるものではなく、単なるこの世の常識に過ぎなかった。
主は「人々をすわらせなさい」(10節 マタ14:18「それを、ここに持って来なさい」)と言われた。主は、信仰のない彼らを憐れまれた。ここで驚くべきことが起こった。わずか五つのパンと二匹の魚が群衆に行き渡り、一人も漏れることなくみな満腹し、パン切れが十二かごに一杯になったのだ。前代未聞の出来事だ。欠乏は完全に満たされた。
イエスは、あり余る祝福を与え給う。それは、①罪からの救いだ。神は罪人の我らのために御子を十字架におつけになった(2コリ5:21)。ただ悔い改めと信仰によって、罪の赦しが与えられる(1ヨハ1:9)。②汚れからの潔めだ。救われた後も、なお神に対して敵対する古い自分に死んで、キリストに内に生きていただく時、神の前に聖い魂とされる(ガラ2:20)。③勝利の歩みだ(ロマ8:37)。罪と世とサタンに対して、勝ったり負けたりではない、常勝不敗の生涯を送ることができるのだ。④一切の必要の満たしだ(ピリ4:19)。救われ、潔められて、さらに一切の供給の主を知るのだ。⑤そして、リバイバルのみわざだ。この終りの時代に、多くのクリスチャンと教会が回復され、また多くの魂が救われてくるのだ(エゼ47:9)。
主はみわざを成してくださる。主はなそうとしておられる事をご存じだ。その上で我らの信仰を試される。信じる者になりたい。