我らの力の源
ネヘミヤ8:1-18
南ユダ王国は、B.C.586年に新バビロニア帝国により滅亡し、70年間のバビロン捕囚を経たあと、新バビロニア帝国を滅ぼしたペルシャ帝国クロス王から解放令が発布された(エズ1:1-4)。エルサレムに帰還したイスラエルの民は、総督ゼルバベル、祭司ヨシュアの指導下で神殿再建工事に着工した。しかし、ユダ残留民とサマリヤ人らによって妨害され、工事は中断し、民は失望と諦めのうちに自己中心の生活に陥った。のち、ハガイとゼカリヤの激励によって工事を再開し、ついに竣工した。
帰還の様子、工事の様子をエズラ、ネヘミヤが回想して記録している。エズラ記の主題は神殿の再建、ネヘミヤ記の主題は城壁の再建だ。
ペルシャ王の側近となっていたネヘミヤは、神殿はできたが、サマリヤ人の攻撃によって城壁は崩れたままというエルサレムの惨状を聞き、王の許可を得て帰国し、信仰をもって短期間に城壁を再建した。任務を終えた彼は、ペルシャに戻る前に名簿の整理をした。その時、イスラエルの民は一人のように集合し(エズ3:1)、学者であり祭司であるエズラは、水の門の前の広場で夜明けから正午まで朗々と律法を朗読した。民は一心に傾聴した(3節)。
御言葉は全ての民の前に語られた(5節)。全会衆は起立して聞いた。レビ人らは民に律法を明瞭に読み、明解に解き明かした(8節)。民は起立して、「アーメン、アーメン」と答え、ひれ伏して礼拝した(6節)。朗読する者、解き明かす者は明瞭に語り、会衆は謙虚に、受け入れやすい心で聴くという、理想的な礼拝の姿だ。御言葉をそのまま受け入れ、信じ従おうとする姿勢なしに礼拝はできない。
全会衆は律法を聞いて泣いた。御言葉に刺され、過去の罪が思い返されて悔い改めたのだ。御言葉の光に照らされれば、認罪が与えられ、悔い改めに導かれる。彼らの魂が砕かれ、御言葉を慕って御前に出てきていたからだ。
しかし、彼らはいつまでも泣いてはいなかった。総督ネヘミヤ、祭司エズラ、教師レビ人らの激励があった(10節)。
民は帰って食い飲みし、乏しい者には分け与え、大いに喜んだ。読み聞かされた言葉を悟ったからだ。御言葉は罪を示し、彼らを悔い改めに至らせた。しかし、それが御言葉の目的ではない。御言葉は我らに救いを与えるもの、魂に喜びと平安をもたらすものだ(ヤコ1:21)。救われて回復されてこそ、御言葉を聞く意味が真にわかる。
二日後、全部族のかしらたち、祭司、レビ人たちは、律法の言葉を調べるためにエズラのもとに来た。御言葉を聞いて、悟って喜んだだけではなく、さらに学ぼうとしたのだ。御言葉への謙虚かつ真剣な姿勢を見る。御言葉への渇きは、恵まれれば恵まれるほど深まる。
彼らは仮庵の祭の定めを発見した(14節)。ヨシュアの時以来行われていなかった祭だ。律法がないがしろにされていたのだ。Ⅱ列王23:21-23に過越の祭が再開されたことが記されているが、仮庵の祭はそれ以上長きにわたって無視されていた。その分喜びも大きかった。
きよめの集会(聖会)も開催された(18節)。これも律法の定め(レビ23章)であるのに、やはり行われていなかったのだ。イスラエルの民のリバイバルだ。主を喜ぶことの回復だった。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(10節新共同訳)。我らも主を喜び祝おう。力の源を得よう。どんな状況、環境、体調でも、主を喜ぶことは変わらない。主を喜ぶことは力の源だ。困難を切り開き、前進する力だ。この喜びを知って、前進していこう。