礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.06.21

我を愛するか

ヨハネ21:15-23

復活のイエスは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に…」とペテロに問われた。なぜ他の弟子ではなくペテロに問われたのか。それはどういう時か、ペテロがどういう者かということに関係する。

1.どういう時か。弟子たちが不信仰になったときだ。主の復活された朝、彼らは恐怖と不安の中にいた。そこへ主が来られ、彼らは主を見て喜んだ(20:20)。主は彼らにガリラヤ湖へ行くように言われた。彼らは期待をもってガリラヤ湖へ行ったが、主にお会いできなかった。彼らは失望し、ペテロは元の漁師に戻ろうとした。主を信じられなくなっていたのだ。

ところが不漁だった。不信仰のままで労しても益は無いのだ。信仰もダウンし、仕事も行き詰まる八方塞がりの中で、主は岸に立ち給うた。その主の命に従って網を下ろすと、驚くべき大漁だった。岸に戻れば、主が食事を用意してくださっていた。彼らはひとかたならず慰められた。

2.ペテロがどういう者か。主を三度否定した者だった。彼は、自分だけはどこまでもイエスに従って行けると思っていた(マタ26:33、ルカ22:33、ヨハ13:37)。しかし、実際は主の予告どおり、主を三度まで否定した。自信は粉砕され、一番弟子としての面子(めんつ)を保とうとした己もたたきのめされた。もはやどんな弁解も通じない。

そんな彼に、主は「我を愛するか」と問われる。「はい。主よ。私があなたを愛することは…」と答えるが、「あなたがご存じです」と言えた義理ではない。確かに主は、彼が本当に主を愛し、死に至るまで忠実たらんと願ったことを知っておられた。しかし、彼は結局自分が一番可愛いかった。いざという時、自分をかばい、守ろうとしたのだ。

主の問いの「我を愛するか」は“アガパオー”だ。アガペーの愛(神の無私の愛)で愛するかと問われたのだ。しかしペテロの答えの「私があなたを愛することは…」は“フィレオー”だった。フィリアの愛(友愛)でしかなかった。主を愛しているが、痛い目はしたくない、恥はかきたくないという範囲内での愛だったのだ。

我らの主への愛はどうか。「汝この者共に勝りて…」と主は我らにも問い給う。我らは、何を愛するに勝って主を第一に愛したい。

そのためには、第一に救いがはっきりしていなければならない。義認が不明確、罪の赦しの体験が曖昧(あいまい)なクリスチャンでありたくない。罪が赦され、義と認められた(ロマ3:24)というところが明瞭でありたい。救いの第一歩は赦罪と義認だ。もし義認が不確かなら、原因は認罪と悔い改めの不徹底にある。今からでも遅くはない。魂の生き死にに関わる重大事だから、プライドや体面を捨てて主の前に出よう。

第二に、聖潔(きよめ)の恵みをいただきたい。我らの愛は何に向かっているか。金銭、マイホーム、仕事、自分自身…突き詰めれば自分に向かう愛だ。いざとなればなりふり構わず己を愛するというのが、自己の真相、肉の姿だ。

まず自己の真相が分かることだ。自信や人からの評価で己を保とうとするところが崩されないと、先に進めない。醜い己の姿を認め、そんな自分を厭(いと)い、十字架を見上げ、その自分を意志と信仰をもって十字架に付けるのだ(ガラ5:24)。その魂にキリストが内住し給う。そのとき、何ものにも勝って主を愛する者に造り変えられる。我を愛して我がために己が身を捨て給いし神の子を、心一杯愛したいという魂に変えられる(詩31:23)。真に主に従う歩みはそこから始まる。

「汝この者共に勝りて…」との静かな御声を聞こう。これは主からの愛のチャレンジだ。このチャレンジに応えよう。信仰をいただいて、主を第一に愛し、主に従いたい(2コリ5:15)。