礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.06.07

信仰は力

マルコ9:14-29

山頂でイエスのお姿が変貌するという出来事があった後、イエス一行が下山すると、山麓では悲惨な事態が待っていた。一人の父親が、口をきけなくする霊につかれた息子の救いを弟子たちに求めたが、彼らはどうすることもできなかったのだ。息子の状態も悲惨だが、弟子たちの無力さはさらに悲惨だ。彼らは、男の子を真ん中にして、律法学者とただ議論していた(14節)。自らに目を向けようともせず、癒されない現実だけに目を奪われ、体面を気にして自己弁護にきゅうきゅうとしていたのだ。

イエスは彼らの不信仰を嘆かれた(19節)。彼らは使徒として立てられたとき、悪霊を追い出す権威が与えられた(3:15)。ところが、あまりの現実を前に信仰を働かせることができず、その権威を行使できないのだ。使徒の権威は、信仰をもって行使するときに力を発揮する。信仰とは主を仰ぐことだ。しかし、彼らは現状にだけ目を奪われた。

ワラをもつかむ思いでイエスを訪ね、期待して救いを求めてきた父親は、おそらく弟子たちの無力さに失望しただろう。結局、主の御名が辱められることになっていた。

父親は帰って来られたイエスに最後の望みを託し、「ただ、もし、おできになるものなら…」(22節)と言った。彼は弟子たちの失敗を一度見ていたため、イエスヘの期待も半減していた。しかし、主は「できるものなら、と言うのか。信じる者には…」(23節)と言われた。この言葉に、彼は自らの不信仰に目が向けられた。彼はすぐに、「信じます…」と叫んだ。砕かれ、悔い改めるのに時間を置く必要はない。素直に不信仰を認め、主の前に出て「われ信ず」と申し上げるのだ。

彼は「不信仰な私を…」と言った。救われなければならないのは息子ではなく自分だ、主を信じない自分が問題の元凶なのだ、誰よりも自分が不信仰から救われなければならないのだ、ということに気がついたのだ。

主は子どもを癒された(25節)。父子は救われた。父親が主を信じたから、主はみ業を現せたのだ。信仰のないところにみ業は進まない。我らが信じるべきものは、自分の考えや経験や世の常識や人の意見ではなく、不可能を可能ならしめる全能の神だ(ロマ4:18)。

この記事は、主の受難予告に挟まれている(12,31節)。主を信じることは、十字架の贖いに深く関わる。信仰とは十字架信仰に根ざす。主は我らを罪と滅びより救い給うた。悪霊につかれた子どもは、我ら罪人の姿だ。我らは罪過と罪の中に死んでおり、サタンの支配下に滅びゆく哀れな者だ。そんな我らのために、罪なき神の子が十字架にかかられた。悔い改めと信仰により、罪の赦しが与えられ、さらにみ言葉に従っていけば、神に喜ばれない自我が十字架で始末され、キリストが内住し給う恵みをいただくことができる。

十字架にこそ、全き救いが成っている。この主への信仰に立って、万事を可能にする主を信じるのだ。信ずる者には何でもできる。勝利の鍵は、我らの贖いの信仰に基づいた主に対する信仰だ。神の栄光が現されるのを阻むのは不信仰だ。主は成し給うと信じて、大胆に祈って進もう。我らの目の前には大きな山が立ちはだかる。しかし信仰によって山は移る。神の力は信ずる者のうちに働く。