キリストの宝血によって
Ⅰペテロ1:13-25
本書に2つの「愛する者たちよ」がある(2:11,4;12)。この2つの「愛する者たちよ」で本書は三分される。第1部(1:1-2:10)には、我らは何を得しか(過去の恵み)が、第2部(2:11-4:11)には、我らは何を為すべきか(現在の務め)が、第3部(4:12-5:14)には、我らは何を得べきか(未来の希望)が述べられている。
本章に「血」が2ケ所ある(2,19節)。「血のそそぎかけを受けるように」(2節)とは、我らが選ばれた目的だ。そしてそのために必要なのが血だ。
キリストの十字架の血は、我らを父祖伝来の虚(むな)しい生き方から贖い出す力がある(18,19節)。
1.キリストの血は我らを新しく生まれさせる
3-7節に、新生したクリスチャンの特性が挙げられている。生ける望み(3節)、朽ちず汚れず、消えて行くこともない天の資産(4節)、神の御力による守り(5節)、試練の中での喜び(6節)、精錬された実験済みの信仰(7節)だ。
新しく生まれなければそこを歩むことはできない。罪を持ったままでは滅びだ。罪を悔い改め、十字架を信じて、明確に救われた魂にならねばならない。悔い改めと信仰によって、キリストの血がそうする。
2.キリストの血は我らに御霊による聖潔を与える
新しく生まれたクリスチャンは、御言葉に聞き従っていれば、遅かれ早かれ、まだ神に喜ばれない己れに気づく。神の御心に喜んで従うことができず、主を愛すると言いながら、実は自己中心であるという、そのような自我の塊であることに気づく。明確に救われ、真に主を愛していきたいと願う魂は、必ずそこに行き当たる。
もはや小手先(こてさき)の努力や表面的な繕(つくろ)いではどうにもならない。何によっても聖められることがない。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)とパウロは悶(もだ)え苦しんだ。善をしたいのに出来ない、悪をしたくないのにしてしまう。するという行為だけではなく、思いにおいてもだ。実に惨めな人間だ。
しかし、我らにはキリストの十字架がある。パウロは、絶望的な叫びをあげた直後に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ロマ7:25)と言った。なぜか。十字架があるからだ。十字架を見上げ、意志と信仰をもって己をそこにつけて始末するなら(ガラ5:24)、キリストが内に臨んでくださる。そして、我らは神の所有となり、心の底から主を愛し、主に信頼し、御心に従順に従う者になる。キリストの血による贖いとは、ここまで為す全き贖いだ。
「われ聖なれば、汝らも聖なるべし」(16節文)とは、命令でありかつ約束だ。キリストの血によって、我らが聖なる者としていただくことができる。キリストの血が「尊い血」と言われ、“宝血”とまで言われる理由がそこにある。キリストの血はほむべきかな!
我らは、父祖伝来の虚しい生き方からきれいに贖われたか。この世のしがらみに束縛され、金銭欲や権力欲などに占領されてはいないか。エジプトを懐かしみながら、荒野の生活に安住してはいないか。キリストの宝血は、今もなお我らの前に流されている。
血による贖いを確実に得たい。約束を信じて、朽ちない種、変わることのない生ける御言葉に従おう(23節)。