聖霊が臨まれる時
使徒1:1-14
ペンテコステはクリスマス、イースター同様、重要な記念日だ。ペンテコステがなければ教会はなかった。2000年前、待ち望んでいた人々の上に聖霊が下られた(2:1-4)。その日3000人が救われ、教会が誕生した。世界で最初のキリスト教会だ。
それは偶発的な出来事ではなかった。2:1に「五旬節の日になって」とあるが、神の設定された時、人々の魂の準備の時が満期になって、聖霊が臨まれたのだ。ペンテコステは教会に与えられた神の御業であり、同時に魂の個人的な体験だ。
聖霊は、イエスから聞いていた弟子たちへの神の約束だった(4節)。彼らは、イエスが十字架にかかられる前夜、最後の晩餐の席上でその約束を聞いた。そして彼らはエルサレムに留まって待ち望んだ。神は約束を果たし給うた。ペンテコステの日に聖霊が来られたのだ。
聖霊が臨んだとは、ただ力が与えられただけではない。彼ら一人一人の内にキリストが住み、生き、働き出し給うたのだ。内なる全ての汚れ、肉、自己中心な自我一切を十字架につけ、信じて待ち望む魂にキリストが内住される。我らもこの恵みをいただきたい。
この恵みは、誰に与えられるか。第一に、救われたクリスチャンに与えられる。主は我らの罪のために十字架にかかられた。罪なき神の子が神から捨てられ給うた。我らが捨てられないためだ。認罪-悔い改め-十字架信仰により、赦罪-義認-神との和解-新生という救いがもたらされる。もしあなたが救いの確信がないなら、直ちに主のもとへ行こう。
第二に、自分の真相が分かったクリスチャンに与えられる。明確に救われた魂は、早晩必ず自己の姿に気がつく。愛せない、従えない、献げられない、突き詰めれば己が一番可愛いという自己中心性だ。何と醜い、神のみ心にほど遠い者か。そこから渇きが起こされる。自分の弱さを知ったからだ。二階座敷に集まった者たちは、語られるメッセージによって光が当てられ、自らの弱さ、醜さ、傲慢さ、強情さがあらわにされただろう。砕かれただろう。
第三に、キリストを信じたクリスチャンに与えられる。自己の真相が分からせられ、砕かれた彼らは、十字架を仰いだことだろう。救いが完成されている十字架を仰ぎ、醜い自我はキリストと共に十字架に付けられていると信じて決算した魂に、聖霊が臨まれた。
主は「あなたがたは力を受けます」と言われた。どういう力か。①主を愛し、主に従う力だ。もはや自分のために生きるのではなく、自分を愛し、自分のために死んでよみがえられた主を愛し、主のために生きる者とされたい(2コリ5:15)。②主を証ししていく力だ。どのような困難なところでも、自分を愛して救ってくださった主を大胆に証ししていく者となりたい。
力をいただきたい。力のない弱々しいままでいいのではない。何ものにも勝って主を愛し、どこまでも主に従い、主の福音を証ししていく者になりたい。
そのためにはエルサレムから離れないことだ。み言葉が語られている所に出続けよう。主のもとに座そう。一人主の前に出よう。
世の終わりは近づいている。福音が全世界に宣べ伝えられてから終わりは来るとイエスは言われた(マタ24:14)。聖霊をいただき、聖霊に押し出されて、福音を地に満たしていく者となりたい。