僕聴く、語り給え
Ⅰサムエル3:1-21
預言者サムエルの幼少期の物語だ。当時、イスラエルにはリーダーがおらず(士師21:25)、暗黒の時代が続いた。そういう中でサムエルが神に召された。
イスラエルの国は、危機的状況にあった。「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(11節)。神の民にとっては寂しい限りだ。神の言葉が絶えず臨み、黙示が常に与えられているべきだった。これは指導者である祭司の責任だった。エリは個人的には神を畏れる敬虔な祭司で、神の御心に従順だった。しかし、父として我が子らを指導する権威を失っていた。公人として罪を指摘する大胆さと勇気を欠いていた(13節)。
祭司たちが罪を犯している時、民は御言葉なしに放縦に生きていた(箴29:18)。指導者の神への関係如何は、直ちに民が祝福されるか否かに影響する。エリは宗教行事の形式は守っていたが、神との交わりは断絶しようとしていた。
1-3節から、当時の国民の霊的状態が伺える。①御言葉の飢饉(1節、アモ8:11)。②祭司の目はかすんでいた(2節)。③神の灯は消え失せようとしていた(3節、レビ6:13)。④祭司が自宅で眠り、幼子が神の箱の傍らで休んでいた(3節)。
そのような時に、サムエルへの啓示があった。幼子サムエルは、声を聞いた時に直ちに反応してエリのもとへ走った。神の声は老練な祭司には聞こえず、年端もいかず、分別も未だ無い幼子に聞こえた。神は地位ある人にではなく、幼子にご自身を啓示しようと選び給うた。神は人間の制度、慣例に捕らわれ給わない。神は、祭司が神の言葉を取り次ぐにふさわしからぬ状態だったので、サムエルに聞こえさせ給うたのだ。エリは既に祭司の資格を失っていた。
サムエルは「僕聴く、主よ、語り給え」と御声に従順だった。疑わないで、素直な心で御言葉の前に出た。我らの御言葉への姿勢はこうでありたい。主は我らに語り給う。我らが謙虚に聴くなら、更に深く語り給う。聴かない、聞き流す、聴くように装うだけなら、神はそれ以上語り給わない。聴くとは従うことだ。聴いてその通り従うのだ。
サムエルへの神の言葉の内容は、エリの家への裁きだった。エリはサムエルからそのことを聞いて、あわてず、騒がず、言い訳もせず、御心に服従した(18節)。彼に敬虔さが残されていたのは、神の憐れみだ。敬虔とは、いつでもどこでも御旨に服従することだ。
こうして預言者サムエルが誕生した。「彼のことばを一つも地に落とされなかった」(19節)とは、預言者の条件だ。その秘訣は「主は彼とともにおられ」たことだ。臨在信仰とは主との不断の交わりこそ、御言葉が成就する秘訣だ。
「僕聴く…」は預言者サムエルの終生の姿勢となった(21節)。主ご自身が彼を主の預言者と定め給うた(20節)。彼が絶えず御言葉に聴き従った故だ。
主は今も我らに語り給う。語られるところはキリストの十字架だ(出25:22)。十字架の贖いを通して、十字架による救いと聖潔の全き贖いを通して、主は我らに語り給う。細き神の声を聴き逃すことなく、謙虚に聴き従おう。