キリストのかおり
Ⅱコリント2:1-17
キリストを知る知識のかおり(14節)、かぐわしいキリストのかおり(15節)とは何か。コリント教会には特別の意味があった。
コリント教会は、パウロが第2回伝道旅行で、困難の中で失望したとき、主に励まされ(使徒18:9,10)、涙と忍耐による宣教の結果、基礎が据えられた教会であって、教会への彼の愛もひとしおだった。ところが、彼に悪い知らせが届いた。教会内の様々な罪やトラブルの知らせだ。教会は動揺し、堕落の危機にあった。そこで彼は第一の手紙を送り、厳しく罪を指摘した(1節)。
それによってコリント教会員にかなりの悲しみが生じた。けれども、真の悔い改めではなく、依然として罪の生活を続ける者もいた。しかしパウロは、気を取り直すように、神に感謝した(14節)。教会にどんな問題があっても、神が勝利を取られるからだ。神はいつも我らをキリストによる勝利の行列に伴い給う。
キリストは罪と死に勝利された。主は十字架で罪に勝ち、復活によって死に勝たれたのだ。その凱旋(がいせん)に我らをも伴い行き給う。十字架と復活で我らの贖いを完成されたからだ。主は、我らがキリストと共に死なせられ、キリストと共によみがえらせられるという全き救いにあずからせ給う(コロ2:14,15)。これが我らの勝利だ。これがないと勝利がない。
「キリストを知る知識のかおり」と言う。知識にかおりがある。それは「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」(ピリ3:8口語)であり、キリストを得ること、つまりキリストの死とよみがえりの様に合体させられる恵みのことだ。知識だが、頭だけの理解ではなく、恵みの体験だ。キリストにおいてなされた体験が、わが体験になる。だから絶大な価値なのだ。
その体験的な知識は、かおりとなる。人を喜ばせ、和らげ、主に従うことの楽しさを知らせるかおりとなる。死んだ知識はかおりにはならないが、生きた知識は芳香を放つ。そのかおりが我らから放たれるのだ。主を知る知識を得、主ご自身をいただいたなら、その恵みを通して神がかおりを放ってくださるのだ。
キリストのかおり(ユーオーディア)とは、キリストらしさだ。それは神の御心への全き従順だ。主は徹底して神の御心に従われた(ヨハ5:19、8:29)。神への信頼あっての従順だ。信頼しているから従える。従えないのは信頼していないからだ。疑わず、つぶやかず、喜んで従う歩みが、キリストらしさの現れた歩みだ。
そういうキリストらしさを、我らを通して人が見る。真のクリスチャンらしさとは、このキリストらしさだ。人が造り上げたクリスチャン像は無意味だ。クリスチャンとはキリストに倣(なら)う者のことを言う。
滅びる者には、キリストのかおりは死に至らせるものだ(16節)。信じない者、従わない者、聞こうとしない者には、“キリストの如く”は不可能な事だ。窮屈でたまらない。いのちを断つように言われることに等しいことだ。しかし、救われる者には、いのちに至らせるものだ。信じて従う者、渇いて求める者には、この上ない福音だ。
人を生かしもし、殺しもする福音を、我らが委ねられているとは、何と恐れ多いことか。しかし、神は我らを信任し、この福音を託し給うた。畏れつつ、謙虚に、しかし権威をもって、この福音を宣べ伝えよう。