第一に求めるべきもの
マタイ6:19-34
山上の説教(5~7章)は天国の憲法と呼ばれる。イエスが弟子たちに語られたもので(5:1)、救われた者に対する神のメッセージだ。主の十字架の血で贖われた天国民としてふさわしい歩みとは何かが示されている。
イエスは天に宝を蓄えるよう言われた(19,20節)。我らに約束された天の資産は、朽ちず汚れず消えていかないもので(1ペテ1:4)、我らはその相続人だ(ガラ4:6,7)。我らは宝を土の器の中に入れている(2コリ4:7)。土の器の中の宝とは、義認・聖化・栄化の全き贖いだが、ここではとくに義認・聖化の実である栄化、栄光の希望だ。
主は、この希望を持って歩めと言われる。我らは地上を歩みながら、魂は天の処に移されている。もはや心は地上のことに捕らわれない。天を向いているのだ(コロ3:1,2)。
地上には困難、試練、誘惑、悲哀、絶望などがある。しかし目を上げるなら、栄光の希望がある。そこに目を留めて、信仰を持ちつつ、なお現実の生活の中を歩むのだ。
我らの心は最も大切なものに向けられる(21節)。地上の富、地位、名誉を大切にするなら、関心はいつもそこに向けられる。しかし、それらは虫が食い、さびがつき、盗人らが盗み出すもの、朽ち果てるものだ。
我らの関心は、第一に神ご自身に向けたい。御子をも惜しまず与え給うた愛と憐れみの神に、そして、私を愛して、私のためにご自身を捨てられた神の子イエスに心を向けたい。
第二に、主からの朽ちない永遠の恵みに関心を向けたい。全き贖いを自分のものにする事に専心したい。聞くだけ、祈るだけではなく、義認・聖化・栄化が確信となるまで求めていきたい。
第三に、救霊に関心を向けたい。滅びゆく魂の叫びを聞く者(使16:9)、重荷をもって出かけていく者になりたい。
主に心を向け、最大の関心を持つなら、主も我らに心を向け、豊かに恵みを与え給う(2歴代16:9)。主に心を全うする者、主に真実を尽くす者になりたい。
空の鳥、野の花のたとえ(25節~)で多用される「心配する」という言葉は、いろいろな部分に分裂する、という意味の言葉だ。我らは心配しやすい、思い煩いやすい。どうすれば思い煩わずにおれるか。第一に、神の国とその義とを求めることだ(33節)。全てを支配し給う神に信頼し、従う者たらせ給えと求めよう。自分の思いや計画通りになることを求めるのではなく、御心のままに成し給えと従っていくことだ。
これが主に委ねること、主に信頼することだ。主を信じるとは、もはや自分を信じるのではなく、人に依り頼むのでもなく、ただ主にのみ依り頼むことだ。空の鳥も野の花も、天の父は養い、また装い給う。生活のことは全て父なる神が責任を持ち給う。全能の神を信ずる我らは、生活の一切をも主に委ねられるのだ。
第二に、今日一日のことに集中することだ(34節)。刹那(せつな)的に生きよと言うのではなく、先を心配せず、今を精一杯生きよと言うのだ。全てを支配し給う神に信頼していけば、決して悪いようにはならない。あれこれ思い煩わず、一本の心になりたい。
上に備えられている神の栄冠にのみ心を向けて、前進しよう。我らのために、最愛の御子をも惜しまず与え給うた神が、我らの全責任を負い給う。