礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2015.04.26

主の宝の民とされた恵み

申命記7:1-26

モーセ五書の第五書である本書は、“二番目の律法”と言われる重要な書だ。一番目の律法は出エジプト記、レビ記、民数記だが、本書は単なるその繰り返しではない。一番目の律法は、荒野の旅をする民に与えられた神の律法で、民をカナンの手前まで導くためのものだった。それに対して本書は、カナンに入ろうとする民のために語られた神の律法だ。

本書は、シナイ律法とは別のモアブの契約だ(29:1)。イスラエルには2つの契約が与えられた。律法とは契約であり、民を拘束するものではなく、従えば祝福するという神の約束だ。契約は信頼関係がなければ成立しない。民は神を信じ、神は彼らを信頼して契約を結ばれた。民は不真実だったが、神は真実だった(9節)。

神がいかに真実な方であるかは、イスラエルの民を聖なる民、宝の民にするという約束に現された(6節)。彼らにもともと聖さがあったからでも、資格や価値があったからでもない。むしろ彼らは少数民族で、軍備もなく弱小だった。ただ神の一方的な愛の故、贖いの故だったのだ(8節)。

神は我らを聖なる民、宝の民とし給う。我らには何の資格も価値もない、罪と滅びに定められた者だった。しかし、神がキリストの贖いによって(ロマ3:24)、岩から切り出し、穴から掘り出された(イザ51:1)。

キリストは十字架につけられ、神からも捨てられ給うた。一人が捨てられ万民が救われるという、捨てられる資格がある唯一のお方として十字架に死なれた。それによって、不義なる者が義なる者になった(2コリ5:21)。義認は信仰によって受ける恵みだ。罪の悔い改めと十字架を信じる信仰によって、救いがはっきりとする。

十字架の恵みはもう一つあった。我がための十字架であるだけでなく、さらに我も共に付けられている十字架だ。主は十字架上で死なれた。我らはその主の死にあずかるバプテスマを受けた。であるなら、我らも共に罪に対して死んだ者になったはずだ。そしてキリストが復活されたように、我らも神に対して生きる者になったはずだ(ロマ6章)。

しかし現実は、環境や状況や気分に左右される信仰ではないか。どこまでも自己中心の信仰、自分が傷つかず、痛まず、損をしない範囲内での信仰ではないか。これでは神が満足されるはずがない。

まず自己の真相を、目を逸らさず、ごまかさず、素直に認めることだ。そして十字架のもとに行き、十字架を仰ぐことだ。そこに自分も付けられていると信仰によって決算し、待ち望む魂に主は臨み給う。キリストが聖霊となって内住されるのだ(21節)。ここから聖霊に導かれる新しいクリスチャン生涯が始まる。これが贖いだ。こうして神は我らを聖なる民、宝の民にし、神に専属する者にし給う(7節)。

我らは、世にありながら神に属する者として歩む。船は水に浮かぶが、水は船の中に入らないように、世は我らの中に入らない。ノアの箱舟は内外に木のやに(タール)が塗られた(創6:14)。贖いのタールが塗られているのがクリスチャンだ。

神がいかに我らを愛してい給うか。我らがどんな者でも、宝の民としたいと願い給う。その愛に応えたい。その方法は従うことだ(11節)。主が我らに求め給うものは服従だ。神は我ら一人一人を高価で尊い宝の民に仕上げたいと願い給う(イザ43:4)。御言葉に従いつつ渇いて求めよう。