先立ち給う復活の主
マタイ28:1-20
主イエスは、我らの罪のために十字架にかかって死なれ、アリマタヤのヨセフの墓に葬られた。しかし、主は死に閉じ込められたままではなかった。3日目に復活されたのだ。
ユダヤの指導者らは、自分たちにとって邪魔だったイエスを抹殺して、得意顔だったが、一抹の不安があった。主の復活だ。それは主自らが再三予告しておられたことだった。彼らは、それを信じていたわけではない。十字架が彼らには愚かだったと同じように、イエスの復活など愚かしいことと思っていた。
しかし不安だった。弟子たちが盗み出し、よみがえったと騒がれては、せっかくの苦労も水の泡だ。彼らはピラ卜に願い出て、番人を置き、封印をした(27章)。しかし、その努力は無駄に終わった。主はよみがえられた。人間の肉の努力が、全能の神の前にいかに虚しいかを教えられる。
3日目の朝、2人のマリヤが墓へ急いだ。香油を塗るためだ。これは彼女たちの主への愛の現われだった。ところが、墓は空虚だった。衝撃を受ける彼女たちへの御使いのメッセージはこうだ。①恐れるな(5節)。神はいつもこう言って近づき給う。②イエスはよみがえられた(6節)。主の予告通りだ(16:21,17:23,20:19)。主の御言葉は真実だ。③弟子たちに伝えよ(7節)。主は先にガリラヤに行かれるから、そこでお会いできるという約束だ。
弟子たちにとって、主の死はショックだった。彼らは悲しみと恐れに取り囲まれた。何よりも主を見捨てて逃げた自分たちの姿に絶望した違いない。そんな彼らに、このメッセージが与えられた。暗黒の中に光がさした。光に進み給う復活の主が示された。悲しみは喜びに、不安は平安に変えられた。
復活のイエスは、我らに喜びと平安をもたらす。主の復活が我らに意味するものは何か。
(1)救いが確かであることの保証だ(ロマ4:25)。主は十字架で救いを完成し、我らに罪の赦しを与え給うた。そして、我らに義認を与え、我らを罪を犯さなかった者としてみなし給う。主の復活はその保証だ。
(2)キリス卜の内住の恵みだ(ガラ2:20)。救われてもまだ罪を犯させる古き人、自我、神に喜ばれぬ自己中心を、信仰によって十字架につけた魂に、よみがえりの主が臨み給う。そして、我らが主のように神の御心に喜んで従っていける者とし給う。
(3)栄光の希望の約束だ(コロ1:27)。主は必ず再臨され、我らを栄光の姿に変えて迎え給う。内に主が来られたなら、いつでも栄光の主の前に立てる確信が与えられる。
このような恵みを与え給う主が、我らの先頭に立って進み給う。贖いを成し遂げ給うた主、死に打ち勝ち給うた主、内にまで住み給う主、やがて来たり給う主が、先に進み給う。この主を仰いで従っていきたい(ヘブ12:2)。
「彼処(かしこ)にて謁(まみ)ゆるを得ん」(7節文語)。我らが渇いて求めていくなら、必ず救い主に会える。御言葉に従っていくなら、必ず潔め主に会える。信じて待ち望むなら、必ず栄光の主に会える。これが復活の主の約束だ。よみがえりの朝の喜びが、我らのものになるように。