惜しみない主への愛
ヨハネ12:1-11
過越の祭の6日前にイエスはベタニヤに憩われ、マルタのもてなしを受けられた。主はかつて彼女に「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して…」(ルカ10:41,42)と指摘されたが、今は喜んで彼女の接待を受けられる。
主が復活させたラザロも同席していた。彼はただ座っているだけだが、それが証しになった(9-11節)。それは主にとって慰めであり、喜びだった。しかし、主の一番の慰めは、マリヤの行動だった。彼女は高価で純粋なナルドの香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪の毛で拭いた。香油の香りが家いっぱいになった。
ナルドの香油は女性にとって宝であり、マリヤにとっても貴重なものだっただろう。300gは少量だが300デナリ(約10ヶ月分の生活費)に相当した。マルコの福音書(14:3)では、壷を壊して注ぎかけたと記録されている。惜しみない愛、最高の愛の現れだった。主は「自分にできることをしたのです」(マル14:8)と評価された。
主は彼女の行為を、「わたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていた」(7節)と言われた。香油は死人に塗るためのものでもある。主が復活された朝、女性達がイエスの遺体に塗るために香料を持って墓へ行ったが、その中にこのベタニヤのマリヤの姿はなかった。既にここで香油を主に献げたからだ。“主は私の罪のために死なれる、私のために葬られる”と彼女は信じていた。これが彼女の信仰だった。
自分のために命を捨て給う主と信じるから、いかに高価な香油でも献げることができた。自分のために貯えてきた香油を、ただ主のためだけに献げた。これが彼女の献身だった。誰から命じられたわけでもなく、主への愛を動機とした献げ物だった。
我らも、この献げ物を献げることができる者になりたい。そのためにはまず魂の救いをいただきたい。自分がいかに罪深い者であったかを認め、神の前に罪を悔い改め、イエスの十字架を私の罪のためだったと信じて、罪の赦しをいただきたい。ここがはっきりしたら、次に進むことができる。
御言葉の光に照らされて(ヘブ4:12)、どこまでも己れをいとおしみ、可愛がり、かばい、憐れみ、正当化する、という自分の姿が分からせられる。そこから、十字架の深い恵みへと導かれる。主よりも己を愛する自我は、必ず始末されなければならない。どこで始末されるのか。キリストの十字架だ。それがはっきりした魂に、キリストが内住し給う(ガラ2:20)。それは神の恩寵(おんちょう)であり、信仰によるみざわだ。キリストの血は、我らをそこまで救うのだ(1ヨハ1:7)。
この恵みをいただいたら、喜んで主に最高のものを献げることができる。かつて自分がどういう者だったか、主がどれほど愛し、奇しいみわざをなし給うたかを思えば、献げたいと思わずにおれない。
我らもナルドの香油を献げたい。余り物ではなく、最高のものを献げたい(雅4:10)。動機は主への愛だ。この愛によって献げるものが、主に喜ばれる香りとなる(ロマ12:1)。
まことの献身をしたい。主に喜ばれる真の献身者になりたい。一人一人が聖霊の宮となり、内からキリストの香りを放つ者とならせていただこう。