イエスの血による新しい道
ヘブル10:19-25
祭司の務めは民のための執り成しだった(11節)。罪を犯した者は犠牲の羊を伴って祭司の所に行った。羊は殺され、血が祭壇に注がれ、体は祭壇で焼かれた。これで罪の赦しがその人に与えられた。これが毎日の儀式だった。
大祭司は年に一度、大贖罪日に、羊の血を携えて至聖所に入り、贖いをなした。一年の罪の総決算だった。ところが、しょせんは儀式であって、罪を除き去ることはなかった(11節)。日毎、年毎に繰り返すが不完全だった。
しかし、イエスは十字架で完全な贖いを成し遂げられた(12節)。一度だけご自身の体をいけにえとして十字架に献げられた。一度限りの十字架だったが、完全で永遠の贖いだった(9:12)。当時のイスラエル人のためだけの贖いではない。我らすべての者のための贖いだ(14節)。このイエスの血によって、どんな罪も赦される。赦罪と義認が与えられる。そうするのはイエスの血だ。この恵みにより、我らは大胆に至聖所に入ることができる(19節)。
「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」(20節)とある。主が息を引き取られたとき、聖所と至聖所との隔ての幕が真っ二つに裂けた(マタ27:51)。その結果、誰でも、いつでも自由に至聖所に入ることができるようになった。我らが神との自由な深い交わりを持つことができるのだ。赦罪と義認よりもさらに深い、聖潔の恵みだ。
赦罪と義認は過去の罪の清算だが、聖潔(きよめ)はクリスチャンになってからもなお残る神に対する敵対性の始末だ。自分の内心、言動をじっくり見ると、救われたはずなのにまだ罪を犯す自分、御心に従えない、いや従いたくない己、結局自分が一番かわいいという肉にたどり着く。良心だから良い心のはずだが、現実は邪悪だ(22節)。これが神に対する敵対性だ。自分ではどうすることもできない。
しかし我らに十字架あり。我がための十字架だけでなく、我も共につけられている十字架だ。信じて決算し、待ち望んだ魂にキリストが臨まれる。そしてキリスト・イエスに専属する者に造り変えられる(ガラ5:24)。主が内住されたら、もはや良心のとがめはない(22節)。神の前に曇りのない魂になり、信頼しきって真心から神に近づくことができる。
神に近づくとは、イエスのように喜んで御旨を行うことだ(詩40:8)。そして神に近づくとは、御前に傷なき者として立たしめられることだ。血潮のゆえに従うことができ、血潮のゆえに御前に立ち得る。
イエスの血による新しい道、活ける道は、我らのために開かれている。我らを罪から救い、汚れから聖め、主との深い交わりに入れる恵みの道だ。我らを神に近づかせるのはイエスの血だけだ。ただ御子の血潮と、そして血潮に対する我らの信仰にかかっている。
主は真実だ(23節)。行うと言われる以上、必ず行い給う。あとは我らが信じ従うのみだ。そのためには、み言葉の語られている所に、意志を働かせて出ていこう(25節)。そうでないと魂は落ちる。かの日は近づいている(同)。主の前に立たせられる日は近い。大胆に、全き信仰をもって御前に立てる者になりたい。